もし小栗忠順(小栗上野介)が、権田村で斬られずに飯能へ向かい、飯能戦争で旧幕府方の総指揮をとっていたら、どうなっていたでしょうか。
小栗は、幕府の勘定奉行や陸軍奉行をつとめ、横須賀製鉄所をつくり、フランス式の陸軍を育てた人物です。2027年の大河ドラマ『逆賊の幕臣』の主人公でもあります。けれど史実では、戊辰戦争の戦場に立つことはありませんでした。今回は、その小栗が一度だけ戦場に立っていたら、という予想です。
先に結論:最初の戦いには勝てても、弾がつきて撤退する
先に私の答えを書いておきます。小栗が飯能で総指揮をとれば、最初の新政府軍の攻撃は、待ちぶせで打ち破れたのではないでしょうか。二度目の攻撃も、なんとかしのげたかもしれません。
けれど、江戸はすでに新政府の手にあり、小栗たちには兵も弾薬も補給するあてがありません。三度、四度と新手をくり出してくる新政府軍の前に、火薬も砲弾も鉄砲玉もつきて、最後は飯能から兵を引くことになる。そして、町を火の海にせずに引きあげたことが、小栗らしい戦いの終わり方になったのではないかと考えます。
前提:史実の小栗は、権田村で斬られた
1868年(慶応4年)1月、小栗は幕府の役職を解かれ、知行地だった上野国の権田村(いまの群馬県高崎市倉渕町)に移りました。村の東善寺に仮住まいし、観音山に屋敷を建てながら、村の若者を集めて塾を開こうとしていたとされます。
移ってまもない3月4日には、2千人をこえる一揆勢が権田村に押しよせました。小栗は、数名の家臣と権田村の若者100人あまりで、これを追い払ったといわれます。
ところがこの撃退が、かえって「小栗は兵を集め、大砲を持っている」といううわさを広めます。新政府の東山道軍は小栗をとらえ、閏4月6日、取り調べもないまま、烏川の河原で斬りました。新政府方は「大砲を持ち、砲台を築いていた」と言いたてましたが、東善寺などでは、これはでっちあげだったとされています。
もし小栗が、権田村を抜け出していたら
ここからが予想です。新政府軍が近づいていると知った小栗が、とらえられる前に権田村を抜け出していたら、どうでしょうか。
連れていくのは、江戸から従ってきた家臣たちと、一揆勢を追い払った権田村の若者たちです。家臣50人ほどと、若者の農兵100人ほど。新政府方が疑った「洋式の農兵隊」と「わずかな大砲」が、もし本当にあったとすれば、小栗は小さいながらも自分の私兵をもっていたことになります。
小栗の私兵:家臣50人と農兵100人、四斤山砲2門(予想)
小栗の私兵の中身を、予想してまとめてみます。数は少なくても、装備は当時の最新式です。
| 部隊 | 人数 | おもな装備 |
|---|---|---|
| 小栗家の家臣隊 | 約50人 | シャスポー銃(フランス製の元込め銃) |
| 権田村の農兵隊 | 約100人 | ミニエー銃(先込めの施条銃) |
| 砲隊 | 家臣のうち十数人 | 四斤山砲 2門(フランス式の山砲) |
シャスポー銃は、1866年にフランス陸軍が採用した、当時もっとも新しい元込め銃です。弾を銃の後ろから込めるので、伏せたままでもすばやく撃てます。1867年には、フランス皇帝ナポレオン3世から幕府に贈られ、フランス式の伝習隊が使いました。フランスと手を組んで幕府の陸軍を整えた小栗なら、家臣に持たせていても不思議はありません。
農兵には、ミニエー銃を持たせます。弾を銃口から込める先込め式ですが、銃身の内側にらせんのみぞ(ライフル)が切ってあり、遠くまでまっすぐ飛びます。幕府や諸藩で広く使われた、当時の主力の銃でした。
そして大砲は、四斤山砲を2門。フランスで生まれた山砲で、分解して馬で運べるほど軽く、戊辰戦争では新政府軍も旧幕府軍も使った大砲です。新政府方が「小栗は大砲を持っている」と疑ったのが、この2門だったとすれば、話がつながります。
ただし、どれも弾がなければ使えません。シャスポー銃の弾は専用の紙の薬莢で、日本ではなかなか作れませんでした。この弱みが、のちの戦いで小栗たちを追いつめていきます。
小栗たちは、上州から秩父の山を抜け、武蔵の飯能へ向かいます。そこには、旧幕府方の部隊「振武軍」が集まっていたからです。
振武軍とは:渋沢成一郎と尾高惇忠の部隊
振武軍は、上野の彰義隊から分かれてできた旧幕府方の部隊です。頭取は渋沢成一郎(喜作)、軍師は尾高惇忠。どちらも、のちの実業家・渋沢栄一の親せきです。尾高の弟の渋沢平九郎も加わっていました。
1868年5月15日の上野戦争で彰義隊がやぶれると、生きのこった兵の一部が振武軍に合流します。振武軍は飯能の能仁寺に本陣を置き、智観寺、観音寺、広渡寺、心応寺、玉宝寺などに兵を分けて泊まらせました。兵はあわせて400人から500人ほどだったとされます。
| 陣営 | おもな顔ぶれ | 兵の数(目安) |
|---|---|---|
| 振武軍 | 渋沢成一郎(頭取)、尾高惇忠(軍師)、渋沢平九郎、彰義隊の残兵 | 400〜500人 |
| 小栗の私兵(予想) | 小栗忠順、小栗家の家臣、権田村の若者 | 150人ほど |
| 新政府軍 | 佐土原藩、大村藩、福岡藩、久留米藩、川越藩、岡山藩 | 振武軍の数倍 |
なぜ小栗が総指揮官になるのか
振武軍は、気持ちの強い若者が多い一方で、洋式の軍隊をどう動かすかを知っている人は多くありませんでした。そこへ、幕府の陸軍奉行をつとめ、フランス式の伝習隊づくりにかかわった小栗がやってきます。渋沢成一郎も尾高惇忠も、もとは武蔵の農家の出です。幕府の重職にあった小栗に、全軍の指揮をたのんだのではないでしょうか。
もう一つ、おもしろい縁があります。尾高惇忠は、明治になってから、群馬の富岡製糸場の初代場長になる人物です。富岡製糸場は、フランス人技師をまねいてつくられた官営の工場でした。横須賀製鉄所でフランスと手を組んだ小栗と、のちにフランス式の工場をまかされる尾高。二人は、飯能の陣で意気投合したかもしれません。
小栗の布陣:兵を分けず、川の手前で待ちぶせる
史実の振武軍は、飯能の寺々に兵を分けて泊まり、新政府軍が集まる扇町屋へ夜襲をかけようとして失敗しました。小栗なら、まず次の三つを変えたと思います。
| 史実の振武軍 | 小栗の指揮(予想) |
|---|---|
| 寺々に兵を分けて泊まる | 鉄砲隊を一か所にまとめ、いつでも集中して撃てるようにする |
| 扇町屋へ夜襲をかける | こちらから攻めず、入間川の笹井の渡しの手前で待ちぶせる |
| 敵の動きをつかめない | 権田村の若者を物見に出し、新政府軍の動きを先につかむ |
数で負けている側が、自分から攻めかかっても勝ち目はうすい。川を前にして、渡ってくる敵を撃つ。フランス式の調練を知る小栗なら、そう考えたのではないでしょうか。

第一戦:笹井河原の待ちぶせで、新政府軍を打ち破る
史実の5月23日の深夜、佐土原藩の兵が、入間川ぞいの笹井村で振武軍に奇襲をかけ、笹井河原の戦いが始まりました。
けれど、小栗の物見がこの動きを先につかんでいれば、話は逆になります。川を渡ってきた佐土原藩の兵を、河原の土手にかくれた鉄砲隊が待ちぶせ、いっせいに撃ちかけます。夜の闇のなか、どこから撃たれているかもわからない新政府軍は、くずれて扇町屋へ引きあげたのではないでしょうか。小さな戦いですが、小栗が戦場で勝った、最初の一戦です。

第二戦:川越からの新手も、なんとか押し返す
一度やぶれた新政府軍は、すぐに新手を送りこんできます。川越藩、福岡藩、久留米藩の兵が、大砲をもって飯能へ迫ります。
小栗は、野田村や双柳村のあたりで鉄砲隊をうまく動かし、この二度目の攻撃もなんとかしのぎます。史実でも、新政府軍の福岡藩と久留米藩は、双柳村の外れで敵味方の見分けがつかず、同士うちに近い撃ち合いになっています。小栗がこの混乱をつけば、二度目の攻撃も押し返せたかもしれません。
けれど、この二度の戦いで、振武軍の弾薬は目に見えて減っていきました。

第三戦:弾も火薬もつきる
ここで、小栗たちのいちばんの弱みが出てきます。補給がないのです。
江戸はすでに新政府軍の手にあり、上野の彰義隊もやぶれています。小栗が勘定奉行として幕府の財布をにぎっていたころなら、火薬も鉛も、横浜から買い入れることができました。けれど今は、どこからも弾薬が届きません。権田村から運んできたわずかな火薬や砲弾も、二度の戦いでほとんど使いはたしてしまいます。
一方の新政府軍は、岡山藩、大村藩などがさらに加わり、三度目、四度目の攻撃をくり出してきます。兵の数も、大砲の数も、弾薬の量も、まるでちがいます。鉄砲玉がつきた鉄砲隊は、もう戦えません。

| 戦い | 結果(予想) | 振武軍の弾薬 |
|---|---|---|
| 第一戦(笹井河原) | 待ちぶせで佐土原藩を打ち破る | まだ余裕がある |
| 第二戦(野田・双柳) | 川越・福岡・久留米の兵を押し返す | 目に見えて減る |
| 第三戦以降 | 新手をくり出す新政府軍に押される | 火薬・砲弾・鉄砲玉がつきる |
撤退:町を火の海にせずに引く
史実の飯能戦争では、新政府軍の砲弾が能仁寺の本堂に当たって燃えあがり、観音寺も焼かれ、飯能の町は火の海になりました。能仁寺など四つの寺と、飯能村など四つの村の200戸が焼け、住民も命を落としています。
小栗なら、弾がつきた時点で、寺にこもって最後まで戦うことはしなかったと思います。勝ち目のない籠城で、町と村人をまきこむのは、小栗のやり方ではありません。小栗は、権田村で村人のために用水路をひらいた人でもありました。
小栗は、能仁寺の本陣を自分から引きはらい、兵をまとめて夜のうちに飯能を離れます。渋沢成一郎は上州へ、尾高惇忠は郷里へ。そして小栗は家臣と権田村の若者を連れて、秩父の山を越えて上州へ抜け、ふるさとの三国街道をたどって越後へ向かいます。飯能の町は、史実ほど焼かれずにすんだのではないでしょうか。
史実では、尾高の弟の渋沢平九郎は、飯能から逃れる途中、黒山(いまの越生町)で新政府軍にかこまれて自ら命を絶ちました。まだ20代はじめの若さでした。小栗が全軍をまとめて引いていれば、平九郎もまた、生きのびられたかもしれません。
史実ともしもの飯能戦争をくらべると
| 史実 | もしも(小栗が総指揮) | |
|---|---|---|
| 小栗忠順 | 閏4月6日、権田村で斬られる | 権田村を抜け出し、飯能で全軍を指揮する |
| 最初の戦い | 夜襲に失敗し、笹井河原で押される | 待ちぶせで新政府軍を打ち破る |
| 戦いの長さ | 一日で敗走 | 二度押し返し、弾がつきるまで戦う |
| 飯能の町 | 寺と200戸が焼ける | 自分から引き、被害は小さくすむ |
| 渋沢平九郎 | 黒山で自ら命を絶つ | 全軍とともに逃れ、生きのびる |
まとめ:小栗が戦場で教えてくれること
小栗が飯能で戦えば、局地戦には勝てたと思います。けれど、戦いは鉄砲や大砲の腕だけでは決まりません。兵と弾薬を、あとからあとから送りこめる側が勝つ。それは、幕府の財政をあずかり、横須賀に製鉄所をつくって「戦うための力」を整えようとした小栗自身が、いちばんよくわかっていたはずです。
江戸を失った旧幕府方には、もう補給の道がありませんでした。小栗が飯能で兵を引いたのは、やぶれたからではなく、それを知っていたからではないでしょうか。
飯能を離れた小栗が向かう先は、越後の長岡です。長岡では、河井継之助がガトリング砲を買い入れ、藩の兵を洋式に変えて新政府軍と戦っていました。そして越後には、外国の武器が運びこまれる新潟港があります。飯能で補給の大切さを思い知った小栗が、次に目をつけるのは、この港だったのではないでしょうか。こうして小栗たちは、三国峠を越えて、長岡へと退いていきます。
長岡での小栗と河井継之助の戦いは、次の記事で予想してみます。






