1570年4月、織田信長は越前の朝倉義景を攻めていました。ところが、妹のお市を嫁がせていた北近江の浅井長政が、突然、朝倉の味方について背後から迫ってきます。はさみ撃ちにされかけた信長は、わずかな供回りで京へ逃げ帰りました。このとき、いちばん危ない殿(しんがり)をつとめたのが、木下藤吉郎、のちの豊臣秀吉です。
では、もし秀吉がこの金ヶ崎の退き口で討ち死にしていたら? 残された弟の小一郎、のちの豊臣秀長は、兄の家をどうしたのでしょうか。

先に結論:小一郎は兄の家を守れても、「天下人・豊臣」は生まれなかった
先に私の答えを書いておきます。小一郎は兄の兵をまとめて京へ戻り、木下家をつぶさずに守りぬいたと思います。蜂須賀小六や竹中半兵衛もいますから、木下家は織田家の中で、そこそこの大名として続いていったでしょう。
けれど、人の心をつかんで一気に駆けあがる「秀吉の力」は、小一郎にはありません。長浜城主にも、中国攻めの総大将にもならず、本能寺の変のあとに天下を取ることもなかった。豊臣秀吉も、豊臣秀長も、生まれなかったと思います。
史実:金ヶ崎の退き口
| 年月 | 出来事 |
|---|---|
| 1570年4月20日 | 信長が京を出て、越前の朝倉攻めに向かう |
| 4月25日〜26日 | 敦賀の天筒山城と金ヶ崎城を落とす |
| 4月27日ごろ | 浅井長政が朝倉方についたという知らせが届く |
| 4月28日 | 信長が撤退を決め、木下藤吉郎らが殿として金ヶ崎に残る |
| 4月30日 | 信長が朽木谷を抜けて京へ戻る |
| 5月 | 藤吉郎も追撃をしのいで京へ戻る |

信長は、浅井長政の裏切りを最初は信じなかったと伝わります。けれど知らせが次々と届くと、すぐに撤退を決めました。若狭から近江の朽木谷を抜ける山道を通り、わずか2日ほどで京へ逃げこんでいます。
信長が逃げるあいだ、追ってくる朝倉軍を食い止める役目が殿です。殿は、味方が逃げきるまで敵の前に残る、もっとも死にやすい役目でした。藤吉郎はこれを引き受け、何度も追撃をしのいで、ついに京へたどり着きました。
なお、殿には藤吉郎だけでなく、明智光秀や池田勝正も加わっていたという記録もあります。それでも「金ヶ崎の退き口といえば藤吉郎」と語りつがれ、これが藤吉郎の出世の大きなきっかけになりました。



金ヶ崎城跡(筆者撮影)。木戸跡が残る細い尾根の先に、敦賀湾が広がります
ですが、もし秀吉が金ヶ崎で討ち死にしていたら
もし朝倉軍の追撃がもっと激しく、藤吉郎がここで討たれていたら。殿の兵は散り散りになり、生き残った者たちは、小一郎のもとに集まって京をめざすことになります。

このとき小一郎は30歳ほど。兄の家臣として、兵糧や人の手配をまかされていたと考えられています。表に立つのは兄、裏を支えるのは弟。そんな兄弟でした。
こうなったかもしれない
1. 小一郎、兵をまとめて京へ帰る

兄を失った小一郎は、まず残った兵をまとめなければなりません。蜂須賀小六や前野長康といった古くからの仲間が、小一郎のまわりを固めたはずです。
小一郎は、むやみに戦うことはせず、朽木谷の道を急いで抜けて京へ向かったでしょう。兄のような派手さはなくても、兵を無駄に死なせない慎重さが、小一郎の持ち味でした。
2. 信長の前で、兄の跡を願い出る

京に戻った小一郎は、信長に兄の死を報告し、木下家を継がせてほしいと願い出たと思います。殿で命を落とした家臣の家をつぶせば、ほかの家臣たちの心が離れます。信長は、小一郎に兄の兵を預けたでしょう。
ただし、信長が小一郎に、兄と同じだけの期待をかけたかどうかは分かりません。信長が藤吉郎を取り立てたのは、だれも思いつかない手を次々と打つ、あの才覚があったからです。
3. 浅井攻めの主役が変わる
史実では、この年の6月に姉川の戦いがあり、そのあと藤吉郎は浅井の小谷城を見張る横山城の城番になりました。藤吉郎はここで、浅井の家臣たちを次々と寝返らせ、1573年の小谷城攻めで大きな手柄を立てます。
小一郎が木下家を継いでいれば、横山城をまかされるのは別の武将だったかもしれません。浅井の家臣を口説きおとす調略は、藤吉郎の得意中の得意でした。小谷城攻めの一番手柄は、柴田勝家や丹羽長秀といった、ほかの重臣のものになったでしょう。
4. 長浜城も、中国攻めもない


長浜城(筆者撮影)。浅井を滅ぼしたあと、藤吉郎が初めて城主となった城です
小谷城攻めの手柄で、藤吉郎は北近江12万石をもらい、長浜城主になりました。名前も「羽柴」と改めます。ここから、中国攻めの総大将、そして天下人へと駆けあがっていくのです。
小一郎が率いる木下家は、この出世の階段をのぼれなかったと思います。中国攻めの総大将は、明智光秀か、別の重臣にまかされたでしょう。木下家は、数万石ほどの堅実な大名として、織田家に仕えつづけたはずです。
5. 本能寺のあと、天下を取るのはだれか

1582年の本能寺の変のあと、すばやく引き返して明智光秀を討ったのは、中国にいた羽柴秀吉でした。秀吉がいなければ、光秀を討つのは、大坂にいた織田信孝と丹羽長秀か、北陸から戻る柴田勝家だったでしょう。
そうなると、清洲会議で織田家の行く先を決めるのは柴田勝家です。そして、その先で天下を手にするのは、勝家か、東で力をたくわえていた徳川家康だったと思います。小一郎は、どちらかの側について、木下家を守ることに心をくだいたはずです。
※日付や兵力には諸説あります。
まとめ:秀吉がいなかったら
| 史実 | もしも | |
|---|---|---|
| 金ヶ崎のあと | 藤吉郎が出世のきっかけをつかむ | 小一郎が木下家を継ぐ |
| 浅井攻め | 藤吉郎の調略で小谷城が落ちる | 柴田・丹羽らが手柄を立てる |
| 1573年 | 藤吉郎が長浜城主に | 木下家は数万石の大名のまま |
| 本能寺の変のあと | 秀吉が光秀を討ち、天下へ | 勝家か家康が天下に近づく |
| 小一郎 | 豊臣秀長として天下を支える | 木下家を守る堅実な大名 |
秀長は、兄がいてこそ力を発揮した人でした。兄が無茶を言い、弟がそれを形にする。二人そろって、はじめて「豊臣」になれたのだと思います。
筆者の感想
金ヶ崎の退き口は、秀吉の人生でいちばん死に近かった日のひとつだと思います。もしここで秀吉が倒れていたら、私たちが知っている戦国の後半は、まるで別のものになっていたでしょう。
そして、秀長という人のすごさも、兄がいなくなると見えにくくなります。秀長は「ナンバー2」だからこそ輝いた人でした。大河ドラマ『豊臣兄弟!』を見ていると、二人がそろっていることの意味を、あらためて感じます。
あなたは、秀吉が金ヶ崎で討ち死にしていたら、小一郎はどんな道を歩んだと思いますか?
よくある質問
金ヶ崎の退き口とは?
1570年4月、越前の朝倉攻めの最中に浅井長政が裏切ったため、織田信長が京へ撤退した出来事です。木下藤吉郎(秀吉)らが殿をつとめ、追撃をしのいで信長を逃がしました。
殿(しんがり)とは?
退く軍のいちばん後ろに残って、追ってくる敵を食い止める役目です。味方が逃げきるまで戦うため、もっとも危険な役目とされました。
このころの秀長はどんな立場だったの?
小一郎(のちの秀長)は、兄・藤吉郎の家臣として仕え、兵や物資の手配など、裏方の仕事をまかされていたと考えられています。のちに但馬攻めなどで大将としても活躍しました。






