1583年4月、近江の賤ヶ岳で、羽柴秀吉と柴田勝家がぶつかりました。本能寺の変のあと、織田家の跡目をめぐって争ってきた二人の、天下分け目の戦いです。勝家の甥・佐久間盛政は、奇襲で秀吉方の大岩山砦を落とし、中川清秀を討ち取りました。ところが盛政は、勝家の「すぐに引け」という命令を聞かず、その場にとどまります。
そこへ、美濃の大垣にいた秀吉が、わずか5時間ほどで50キロ以上を駆けもどってきました(美濃大返し)。不意を突かれた柴田軍は崩れ、勝家は越前の北ノ庄城でお市の方とともに自害します。では、もし盛政が勝家の命令どおりに引き、柴田勝家が賤ヶ岳で勝っていたら?

先に結論:お市と三姉妹は生き、秀吉の天下は大きく遅れた
先に私の答えを書いておきます。賤ヶ岳で勝っても、柴田勝家がそのまま天下を取れたとは思いません。秀吉には畿内と播磨の豊かな国々があり、兵の数でも財力でも上だったからです。戦いは長引き、織田家の宿老たちが力を分け合う形が、しばらく続いたでしょう。
それでも、ひとつだけ大きく変わることがあります。北ノ庄城は落ちず、お市の方と三人の娘たちは生きのびるのです。茶々が秀吉の側室になることも、秀頼が生まれることもありませんでした。
史実:賤ヶ岳の戦い
| 年月 | 出来事 |
|---|---|
| 1582年6月 | 本能寺の変。秀吉が山崎で明智光秀を討つ |
| 1582年6月 | 清洲会議。勝家はお市の方と結婚する |
| 1583年3月 | 勝家が雪どけを待って近江へ出陣。秀吉と余呉湖のまわりでにらみ合う |
| 1583年4月20日 | 佐久間盛政が大岩山砦を奇襲し、中川清秀を討つ。秀吉は大垣から引き返す |
| 1583年4月21日 | 秀吉が反撃。前田利家が戦わずに退き、柴田軍が総崩れになる |
| 1583年4月24日 | 北ノ庄城が落ち、勝家とお市の方が自害する |

勝家は「鬼柴田」と呼ばれた織田家の筆頭家老です。けれど、北陸の越前を本拠にしていたため、雪の季節は兵を動かせません。秀吉はそのあいだに、勝家の味方の滝川一益や織田信孝を攻め、少しずつ勝家を追いつめていきました。
賤ヶ岳でのにらみ合いは、どちらも砦にこもって動かない我慢比べでした。それを破ったのが、盛政の大岩山奇襲です。奇襲そのものは大成功でした。問題は、そのあと引かなかったことでした。


賤ヶ岳の山頂から見下ろす余呉湖と、七本槍ののぼり(筆者撮影)
ですが、もし佐久間盛政が勝家の命令どおりに引いていたら
もし盛政が、大岩山を落としたあと、すぐに本陣の近くまで引き上げていたら。夜になって秀吉が木之本に駆けつけても、目の前にいるはずの盛政の軍はもういません。秀吉の大返しは、空振りに終わります。
こうなったかもしれない
1. 秀吉の大返しが空振りする

秀吉の大返しは、敵が手の届くところにいてこそ意味がありました。盛政が引いていれば、秀吉は大軍を連れて走ってきたのに、戦う相手がいません。
しかも柴田方は、大岩山と岩崎山の砦を奪い、中川清秀を討ち取っています。「賤ヶ岳の初戦は柴田の勝ち」。この知らせは、すぐに諸国に広まったでしょう。
2. 前田利家は柴田方にとどまる

史実で戦いの流れを決めたのは、前田利家が戦わずに兵を引いたことでした。利家は勝家の与力でしたが、秀吉とも若いころからの友人だったのです。
柴田方が勝っている流れなら、利家が退く理由はありません。利家は勝家の側にとどまり、北陸の柴田方は崩れずにすみます。
3. 戦いは長引き、決着がつかない
とはいえ、勝家が一気に京まで攻め上るのも難しいことです。秀吉は大坂から姫路までの豊かな国々をおさえ、兵の数でも勝家を上回っていました。
柴田方は岐阜の織田信孝、伊勢の滝川一益と手を組み、秀吉は丹羽長秀や池田恒興と組む。戦いは近江・美濃・伊勢に広がり、どちらも決め手を欠いたまま、冬になればまた勝家は越前に閉じこめられます。この長い戦いのあいだに、力をたくわえるのは東の徳川家康だったでしょう。
4. お市と三姉妹は北ノ庄で生きのびる

いちばん大きく変わるのは、お市の方と三人の娘たちの運命です。史実では、北ノ庄城が落ちるとき、お市は勝家とともに自害し、茶々・初・江の三姉妹は城を出て秀吉に引き取られました。
勝家が負けなければ、お市は北ノ庄城の奥方として生きつづけます。三姉妹も、勝家とお市が選んだ相手に嫁いでいったでしょう。茶々が秀吉の側室になることはなく、のちの淀殿も、豊臣秀頼も生まれないのです(「もし秀吉が茶々を側室にしなかったら?」)。



北ノ庄城跡の柴田神社に立つ勝家の像と、お市の方と三姉妹の像(筆者撮影)
5. 秀吉の天下は、大きく遅れる

史実の秀吉は、賤ヶ岳で勝ったことで織田家の家臣のトップに立ち、翌年には大坂城を築き始めます。そこから関白、天下統一へと、一気に進んでいきました。
賤ヶ岳で負ければ、その勢いは止まります。秀吉が天下を取るにしても、何年も遅れたはずです。その間に勝家が年老いて亡くなれば、柴田家をまとめられる者はいません。けれど、そのころには家康が、秀吉にとってもっと手ごわい相手になっていたでしょう。
※日付や兵力には諸説あります。
まとめ:賤ヶ岳で勝家が勝っていたら
| 史実 | もしも | |
|---|---|---|
| 佐久間盛政 | 命令を聞かずにとどまる | 命令どおりに引く |
| 秀吉の大返し | 柴田軍を打ち破る | 戦う相手がいない |
| 前田利家 | 戦わずに退く | 柴田方にとどまる |
| お市と三姉妹 | お市は自害、三姉妹は秀吉のもとへ | 北ノ庄で生きのびる |
| 天下の行方 | 秀吉が一気に天下へ | 秀吉の天下は大きく遅れ、家康が力をつける |
筆者の感想
賤ヶ岳の戦いを調べるたびに、佐久間盛政がなぜ引かなかったのか、考えてしまいます。奇襲がうまくいきすぎて、もっと手柄を立てたくなったのかもしれません。若い勇将の勢いが、柴田家の運命を決めてしまいました。
そしてもうひとつ、お市の方が二度も夫と城を失ったことを思うと、胸が痛みます。勝家が勝っていれば、お市は北ノ庄で穏やかな晩年を過ごせたのかもしれません。
あなたは、賤ヶ岳で柴田勝家が勝っていたら、天下はだれのものになったと思いますか?
よくある質問
賤ヶ岳の七本槍とは?
賤ヶ岳の戦いで手柄を立てた、秀吉の若い家臣たちのことです。福島正則、加藤清正、加藤嘉明、脇坂安治、平野長泰、糟屋武則、片桐且元の7人が有名です。
美濃大返しとは?
1583年4月20日、大垣にいた秀吉が、佐久間盛政の奇襲を聞いて、木之本まで50キロ以上をわずか5時間ほどで引き返したことです。沿道の村々にたいまつや食べ物を用意させたと伝わります。
柴田勝家とお市の方はいつ結婚したの?
1582年の清洲会議のあとです。お市の方は浅井長政の妻でしたが、小谷城が落ちたあと織田家に戻っていました。勝家との結婚は、1年もたたずに北ノ庄城の落城で終わりました。






