大河ドラマ第37回で、筒井定次は大和から伊賀へ移されました。秀長に国をゆずる形で、筒井家は代々の地を離れます。見ていて「なんとか残る方法はなかったのか」と思った方も多いのではないでしょうか。
私なら、早いうちに豊臣家と血のつながった親族になって、家を守ります。では、もし筒井家が本当に豊臣の一族になっていたら? 先に私の答えを書いておくと、ねねの血筋とつながっていれば、移封はまぬがれていたかもしれない。そして豊臣の親族衆として、秀頼をもり立てる家になっていた。私はそう考えています。
実際の歴史:筒井家の浮き沈み

筒井家は、もともと興福寺の衆徒から出てきた家です。大和の寺社や国衆と深く結びつき、戦国時代には松永久秀と大和をめぐって争いました。詳しい史実は日本の歴史ガイドの「筒井定次はなぜ大和を出されたのか」「大和の戦国時代とは」で解説しています。
| 年 | 出来事 |
|---|---|
| 1578年 | 筒井定次、織田信長の娘を妻に迎える |
| 1584年 | 筒井順慶が36歳で亡くなり、養子の定次が跡をつぐ |
| 1585年 | 秀長が大和に入り、定次は伊賀上野へ移される |
| 1585年以降 | 定次、秀吉から「羽柴」の名字を許される |
| 1600年 | 関ヶ原の戦いで家康にしたがい、領地を守る |
| 1608年 | 家臣から訴えられ、改易(領地を取り上げられる) |
| 1615年 | 豊臣方に通じたと疑われ、自害 |

定次は「羽柴」の名字までもらい、信長の娘婿でもありました。それでも大和からは外されています。名字をもらう程度の「身内扱い」では、地元までは守れなかったということです。筒井家そのものは伊賀上野の大名として残りましたが、順慶の代から根を張ってきた大和の土地と、そこで結んだ地縁は手放すことになりました。
なぜ筒井家は大和を出なければならなかったのか

理由は大きく二つあると思います。
- 大和が大坂の裏口だった:大和は大坂のすぐ東。秀吉はここに一番信頼できる弟を置きたかった。
- 筒井家が大和に根を張りすぎていた:興福寺とも国衆とも深く結びついた家を残したままでは、寺社の力を崩す改革ができない。
秀吉は、大名を生まれた土地から引きはがすことで力をそいでいきました。あの家康でさえ関東へ移された時代です。ただの家臣のままでは、筒井家が大和に残るのは難しかったでしょう。
移封を断るとどうなるかは、信長の次男・織田信雄の例がよく示しています。1590年の小田原攻めのあと、秀吉は信雄に、関東へ移った家康の旧領(三河・遠江・駿河など)へ移るよう命じました。ところが信雄は、父祖の地である尾張と伊勢を離れたくないと断ります。秀吉の答えは改易でした。信雄は領地をすべて取り上げられ、下野の烏山へ流されてしまいます。信長の息子であっても、土地にしがみつけば家ごと失う。それが秀吉の時代でした。
もしもの分かれ道:ねねの血筋とつながっていたら

では、ただの名字ではなく、本当の血縁だったらどうか。私が考えるのは、ねねの兄弟の孫と筒井家を縁組みさせる道です。
ねねの実家の木下家は、豊臣家が滅んだあとも大名として江戸時代を生き抜きました。ねねの血筋とつながるということは、豊臣の「身内」になると同時に、家を残す力の強い一族とつながることでもあります。
もし筒井家がそこまで深く豊臣の親族に入っていたら、秀吉も「親族を国から追い出す」ことにはためらったはずです。大和の古い家がそのまま豊臣の一族として残る。寺社や国衆との結びつきも、敵ではなく豊臣の力として使える。そうなれば、移封はまぬがれていたかもしれません。
親族衆として秀頼をもり立てる家に
豊臣家の弱点は、秀吉の死後に頼れる親族が少なすぎたことです。秀長は亡くなり、秀次の一族も処刑されてしまいました。
そこに、大和という大坂の裏口を押さえた親族の家が残っていたら。秀頼をもり立てる親族衆として、筒井家はとても大事な役目を果たしたはずです。大坂の背中を守る家があることは、家康にとっても大きな重しになったでしょう。
では、秀長はどこへ行ったのか
筒井家が大和に残るなら、秀長の行き先は変わります。私は、秀長は絶対に家康対策に回されたと思います。つまり、尾張の名古屋か、駿府です。
家康がいちばん一目置いていた豊臣の人間は秀長でした。その秀長を家康の目の前に置き、まわりを例のごとく豊臣恩顧の武将たちで固める。実際、家康が関東へ移ったあとの東海道には、駿府の中村一氏、掛川の山内一豊、浜松の堀尾吉晴、岡崎の田中吉政と、秀吉子飼いの武将がずらりと並べられました。その真ん中に秀長がいたら、家康にとってこれほど動きにくい配置はなかったはずです。

大和は親族の筒井家が守り、東は秀長がにらみをきかせる。こう考えると、筒井家が一族になっていた世界の豊臣家は、史実よりずっと守りの固い政権になっていたかもしれません。
それでも残る皮肉
史実の定次は、関ヶ原で家康についたのに、最後は「豊臣方に通じた」と疑われて命を落としています。豊臣と距離を取っても、結局は豊臣寄りの家として終わったわけです。
それなら、いっそ最初から本当の豊臣の一族として、秀頼を支える道を選んでいたほうが、家の終わり方としては納得がいったのではないか。私はそんなふうにも感じます。
まとめ

もし筒井家が豊臣の一族になっていたら。
- 名字だけでなく、ねねの血筋とつながっていれば、大和からの移封はまぬがれていたかもしれない
- 大坂の裏口を押さえる親族衆として、秀頼をもり立てる家になっていた
- 史実のように「豊臣寄り」と疑われて終わるより、筋の通った生き方になった
大河ドラマでは、定次の国替えは秀長の大和入りの一場面として描かれました。名門の筒井家が代々の地を離れる大きな出来事だけに、昔の大河のような重みのある描き方でも見てみたかった気がします。「独眼竜政宗」や「風林火山」のころは、合戦や行軍の場面だけで息をのむほどの迫力がありました。
あなたは、筒井家が豊臣の一族になっていたら、大和に残れたと思いますか?
よくある質問
筒井定次はなぜ大和を離れたの?
1585年、秀長が大和に入ることになり、定次は伊賀上野20万石へ移されました。大和は豊臣の弟が治める国になったのです。
筒井家はそのあとどうなったの?
定次は伊賀上野の大名として続きましたが、1608年に家臣の訴えなどを理由に改易されます。1615年の大坂の陣のあと、豊臣方に内通した疑いで自害しました。
「洞ヶ峠をきめこむ」の筒井順慶って本当?
山崎の戦いで順慶が洞ヶ峠に陣取り、どちらにつくか様子見をしたという話は、のちの俗説とされています。実際に洞ヶ峠に出たのは明智光秀の方で、順慶は大和の郡山城にとどまっていました。






