もし私が幕末の将軍だったら?天領に梅を植え、家宝も甲冑も売り、最後は自ら幕府をたたむ【逆賊の幕臣】

江戸城で日本地図を広げて改革を指示する若い将軍

2027年の大河ドラマ『逆賊の幕臣』の主人公・小栗忠順(上野介)。横須賀製鉄所をつくり、日本初の株式会社ともいわれる兵庫商社を立ち上げ、幕府を内側から近代化しようとした人物です。

けれど小栗は、あくまで将軍に仕える一人の幕臣でした。どれほど良い案を出しても、決めるのは上の人たちです。では、もし私自身が将軍だったら、幕府をどう立て直すか。

今回は「文久2年(1862年)、徳川慶喜が将軍後見職についたころに、私が将軍の座にいたら」という前提で、思いつく限りの改革を並べてみました。小栗がやったこと、やりたかったことを、もっと早く、もっと大きくやる。それが今回の「もしも」です。

将軍の幕府立て直し 6つの柱の関係図
6つの柱で幕府を立て直し、最後は自ら幕府をたたむ(関係図)
目次

先に結論:軍備・人事・財政・産業を同時に変えれば幕府は立て直せた。そして最後は自ら幕府をたたむ

先に私の答えを書いておきます。文久2年の時点なら、幕府にはまだ立て直す力が残っていました。全国に散らばる天領、江戸・大坂の商業、開港地の貿易、そして仕事のない大勢の幕臣。これらを一度に動かせば、財政も軍備も持ちなおせたと思います。

ただし、立て直した幕府をそのまま続けるつもりはありません。最終的には天皇のもとで幕府を解体し、廃藩置県まで持っていく。「幕府を救う」のではなく、「幕府の力で日本をつくり変え、役目を終えたら自分でたたむ」。これが私の考える最後の将軍の仕事です。

史実:文久2年の幕府はどんな状態だったか

文久2年は、桜田門外の変(1860年)で大老・井伊直弼が討たれてから2年後です。幕府の権威はゆらぎ、朝廷や雄藩の発言力が強まっていました。この年、幕府は「文久の改革」をおこない、慶喜が将軍後見職、松平春嶽が政事総裁職につきます。参勤交代も3年に1度にゆるめられ、大名の妻子は国元へ帰ることを許されました。

項目文久2年ごろの状態
財政開港後の物価高と、軍備・外交の出費がかさみ苦しい
人事家柄で役職が決まる。小普請組には役のない旗本・御家人があふれる
外交横浜・長崎・箱館を開港。攘夷派が朝廷を動かし、幕府に攘夷を迫る
軍事洋式海軍はまだ小さく、軍艦は外国から買うしかない
大奥十三代家定の正室・天璋院と、十四代家茂の正室・和宮がいて、大所帯のまま

つまり、お金がなく、人はいるのに働く場がなく、外からも内からも圧力を受けている状態です。ここから、私なりの立て直しを6つの柱で書いていきます。

第1の柱:まず軍備を固める

横須賀に自前の造船所をつくる。造る・直す・売る

史実で小栗が横須賀製鉄所の建設にとりかかったのは1865年です。これを3年早め、文久2年のうちに着手します。軍艦を外国から買い続ければ、お金はどんどん外に出ていきます。自分で造り、自分で修理できれば、そのお金は国内に残ります。

さらに一歩進めて、造った船や修理の技術を諸藩や外国船にも「売る」ことにします。横須賀を、幕府の稼ぎ頭にするわけです。

横須賀の造船所で建造される蒸気軍艦
横須賀の造船所で軍艦を自前で造る(イメージ)

造船所の財源はどうするか

問題はお金です。史実の横須賀製鉄所は、4年がかりでおよそ240万ドルの建設費を見こんでいました。幕府にとっては大きな出費です。小栗は、この費用をフランスへの生糸の輸出でまかない、さらにフランスから借款を受ける計画も立てましたが、借款は実現しませんでした。

この「もしも」では、財源を次のように組み合わせます。

財源中身
一度きりの売却将軍家の家宝、蔵や幕臣の甲冑・槍・刀を外国商人に売る。最初の頭金になる
毎年浮くお金大奥の支出を3分の1以下にし、千石以上の禄を半分にする。浮いた分を毎年の建設費に回す
屋敷の収入江戸の広い屋敷を貸したり売ったりした収入
生糸で返す借款生糸の輸出を担保に、フランスから借款を受ける。史実で実現しなかった借款を、改革で信用を高めた幕府なら引き出せる
造船所自身の稼ぎ完成後は、外国船や諸藩の船の修理、船の販売で稼ぎ、借款を返していく

つまり、最初は家宝と甲冑を売ったお金で始め、足りない分は生糸を担保にした借款でつなぎ、完成したら造船所自身に稼がせて返す、という流れです。古い武具が新しい軍艦に生まれ変わる、というのはこういうことです。

海軍も陸軍も、同時に強くする

軍備を急ぐのは、外国にそなえるためだけではありません。このあと書く改革は、どれも反発を受けます。攘夷派も、禄を減らされる上級の旗本も黙ってはいないでしょう。改革を最後までやりとげるには、まず力が必要です。海軍は横須賀を中心に、陸軍は洋式の歩兵・砲兵を育てます。

韮山反射炉で大砲を、横須賀の工作機械で最新の銃を

伊豆の韮山には、江川英龍が着工し、1857年に完成した反射炉があります。鉄を溶かして大砲を鋳造するための炉で、幕府の直営です。韮山は天領で、江川家は代々の代官ですから、将軍の判断ですぐに増産できます。

ただし、反射炉で作れるのは大砲です。ライフル銃のような最新の銃は、鋼と精密な工作機械がなければ作れません。そこで役割を分けます。大砲は韮山と、江戸の関口製造所、そして史実で小栗が建設を進めた滝野川反射炉で作る。銃は、横須賀に入れる西洋の工作機械を使った工場で国産化します。

江川英龍は江川塾で洋式砲術を教え、多くの人材を育てました。韮山を、兵器工場であると同時に技術者を育てる学校にもします。

第2の柱:家柄ではなく、能力で人を使う

世襲をやめ、完全な能力主義に

役職は家柄で決めず、能力で決めます。世襲もなしです。旗本であっても、役に立たなければどんどん役職を下げます。軍も同じで、身分ではなく実力で階級を決めます。

幕閣は旗本で回し、譜代大名は領地へ帰す

老中などの幕閣は、能力のある旗本で固めます。譜代大名には領地へ帰ってもらいます。これは追い出しではありません。「自分の国を豊かにせよ」という命令です。参勤交代の負担から解放され、自分の領地に専念できるのですから、多くの大名はむしろ喜ぶはずです。史実の文久の改革で参勤交代がゆるめられたことの、その先をいく形です。

千石以上は禄を半分に。屋敷は「不動産」として活かす

千石以上の旗本は、禄を一律で半分にします。江戸の広い屋敷は、いまでいう不動産として扱い、貸したり売ったりして収入に変えます。屋敷を持っているだけで出ていくお金を、入ってくるお金に変えるわけです。

小普請・無役をゼロに。全員が働く幕府へ

幕臣のなかには、小普請組など役のない人が大勢いました。給料はもらっていても、仕事がない人たちです。この人たちをゼロにします。このあと書く新しい事業、造船・梅の加工・商社・リユースなどは、すべて小普請や無役の幕臣が担います。眠っていた人材を、近代化の担い手に変えるのです。

幕臣の次男・三男には、天領を開墾させて自分の土地に

武家の家を継げるのは長男だけです。次男・三男は、養子の口が見つからなければ、一生「部屋住み」として兄の家で暮らすしかありませんでした。

この人たちに天領の荒れ地を開墾させ、ひらいた土地はその人のものにします。自分の土地になるなら、本気で働きます。新しい田畑が増えれば年貢も増え、梅や名産を育てる土地にもなります。行き場のなかった若い力が、そのまま国を豊かにする力に変わるわけです。

天領の荒れ地を開墾する幕臣の次男・三男たち
家を継げない次男・三男が天領を開墾する。ひらいた土地は自分のものに(イメージ)

第3の柱:出ていくお金を減らし、眠っている財産をお金に変える

大奥の支出を3分の1以下に

大奥には数百人とも千人ともいわれる女性たちが仕えていました。人が多すぎます。人員を整理し、支出を3分の1以下におさえます。天璋院や和宮の反発は必至ですが、ここに手をつけなければ、旗本に禄の半減を求めることもできません。まず将軍の足元から削るのが筋です。

整理した女性たちは、ただ暇を出すのではありません。養蚕や生糸の仕事についてもらいます。大奥で読み書きや作法を身につけた女性たちは、工場で人をまとめる役にも向いています。史実では明治5年(1872年)に富岡製糸場ができ、全国から集まった工女が技術を広めました。それを10年早く、大奥の女性たちで始めるわけです。

製糸場で糸を繰る女性たち
大奥を出た女性たちが製糸の仕事につく(イメージ)

家宝をオークションにかける

将軍家の家宝を、一度すべて外国商人に売ります。オークション形式にして、いちばん高く買う人に売ります。史実でも1867年のパリ万博に幕府は出品しており、ヨーロッパでは日本の美術品が人気を集め始めていました。そうした場で売りに出せば、高値がつくはずです。

横浜の商館で家宝と甲冑をオークションにかける幕臣
将軍家の家宝や甲冑を外国商人に競り売りする(イメージ)

甲冑・槍・刀も、幕臣の分まで外国商人へ

家宝だけではありません。蔵に眠っている甲冑や槍、刀も売ります。幕臣が個人で持っているものもです。洋式の軍隊になれば、もう使わないのですから。史実では明治になってから、多くの甲冑や刀が安値で海外へ流れました。それなら、幕府が先に、まとめて高く売ったほうがいい。古い武具が、新しい軍艦や銃に生まれ変わるわけです。

遊郭を公認し、税をとる(河井継之助とは逆の手)

遊郭を整備し、公のものとして税をとります。長岡藩の河井継之助は、藩政改革で遊郭を廃止しました。私はその逆をいきます。なくしても人の欲はなくならず、裏に回るだけです。それなら表に出して管理し、税収にしたほうがいい、という考えです。

第4の柱:天領から産業をおこす

天領の一家に一本、梅を植える

天領の農民も庄屋も、一家に一本、梅の木を植えます。苗を買えない家には貸し出し、収穫した梅で返してもらいます。

梅にしたのには理由があります。慶喜の父・徳川斉昭は、水戸に偕楽園をひらき、梅を植えました。梅の実を梅干しにして、飢饉や戦のときの備えにするためです。その水戸の梅を、全国の天領に広げるわけです。

天領の農村で梅の苗木を植える農民と幕臣
天領の一家に一本、梅を植える(イメージ)

ただし、梅をとって終わりにはしません。梅干し、梅酒、梅を使った飲みものまで、加工して売ります。一次産業で終わらせず、加工して値打ちを上げる。いまでいう六次産業化です。寒くて梅が育たない土地では、無理に梅にこだわらず、その土地の名産を育てます。

各天領の名産で産業をおこす

天領は全国に散らばっています。それぞれの土地の名産や産物を見なおし、加工・販売まで含めた産業にします。担い手は、ここでも小普請や無役の幕臣です。

藍染は、まず国内の暮らしを支える産業に

藍染も育てたい産業です。江戸の庶民が着る木綿の多くは藍で染められ、国内の需要はとても大きなものでした。いちばんの産地は阿波(徳島藩)ですが、武蔵の北部などでも藍は育てられていました。天領でも藍を植え、染めて木綿の反物にするところまで仕上げて売ります。

海外向けには、外国人が好む布地やみやげ物として売りこみます。明治のはじめに日本を訪れた外国人は、町にあふれる藍色を「ジャパン・ブルー」と呼びました。ただし、19世紀の終わりにはヨーロッパで人工の藍がつくられ、天然の藍は値崩れします。藍は輸出の柱にするより、まず国内の暮らしを支える産業と考えたほうがよさそうです。

集成館のような工場で、ガラスと陶磁器を海外へ

薩摩藩の島津斉彬は、鹿児島の磯に「集成館」と呼ばれる工場群をつくり、大砲や紡績のほか、薩摩切子のガラスや陶磁器まで作らせました。その跡にあるのが、いまの尚古集成館です。

これを幕府でもやります。天領の土や職人を活かし、ガラスや陶磁器を作る工場を建てて、海外へ売ります。史実でも1867年のパリ万博では、薩摩焼が高い評価を受けました。日本の焼きものやガラスは、売りものになるのです。働き手は、ここでも小普請や無役の幕臣です。

蝦夷地の石炭を、箱館で外国船に売る

当時、蝦夷地は幕府の直轄地でした。箱館奉行は西蝦夷地の茅沼で石炭の採掘にとりかかっています。これを本格的に進め、掘った石炭を箱館に集めます。

箱館は1859年に開かれた港で、アメリカやロシアの船が行き来する北の玄関口です。太平洋を渡ってくる蒸気船にとって、ここで石炭を積めるかどうかは死活問題でした。箱館を石炭の補給と取引の拠点にし、外国船に売ります。蒸気船の時代、石炭はそれだけで立派な輸出品です。南の小笠原が鯨油の港なら、北の箱館は石炭の港です。

箱館港で外国の蒸気船に石炭を積み込む人足と幕府の役人
蝦夷地の石炭を箱館で外国の蒸気船に売る(イメージ)

幕臣で蝦夷地を開拓する。室蘭を拠点に、じゃがいもと炭を

蝦夷地の開拓にも、幕臣を送りこみます。拠点にするのは室蘭です。噴火湾に面した天然の良港で、船の出入りに向いています。

これには前例があります。寛政12年(1800年)、八王子千人同心の一部が蝦夷地に渡り、勇払や白糠で開拓と警備にあたりました。厳しい寒さで多くの犠牲を出しましたが、幕臣が蝦夷地を開いた最初の試みです。今度は家を継げない次男・三男や小普請の幕臣を、もっと大きな規模で送ります。ひらいた土地は自分のものになりますから、天領の開墾と同じく本気で働くはずです。

作物は、寒さに強いじゃがいもが向いています。じゃがいもは江戸時代の後半には、すでに箱館の周りで育てられていました。米がとれない土地でも、じゃがいもなら確実に収穫できます。

室蘭の丘でじゃがいもを収穫し炭を焼く幕臣たち
幕臣たちが室蘭で蝦夷地を開拓する(イメージ)

あわせて、炭も産業にします。蝦夷地の森で木炭を焼き、地面の下からは石炭を掘る。木炭は鉄づくりや暮らしの燃料に、石炭は蒸気船や工場に使います。史実でも室蘭は、明治になると石炭の積み出し港となり、やがて製鉄の町になりました。その流れを、幕府の手で数十年早めるわけです。

この構想は、実は史実の幕臣たちも思い描いていました。戊辰戦争のあと、榎本武揚は職を失った旧幕臣を蝦夷地に移して開拓させようと、箱館に渡ります。それを、幕府がまだ力を持っているうちに実行するのです。

小笠原諸島を「鯨油の島」に

幕府は文久2年ごろ、小笠原諸島を日本の領土として改めて確かめる動きをしています。また、中浜万次郎(ジョン万次郎)は小笠原の近海で捕鯨にとりくみました。この流れを一気に進め、小笠原を捕鯨の基地にします。

当時、欧米の捕鯨船は鯨油を求めて太平洋をめぐっていました。日本も自ら鯨をとり、小笠原を鯨油を売り買いする貿易港にします。

小笠原の入り江で鯨油の樽を取引する幕府の役人と外国商人
小笠原諸島を捕鯨の基地と鯨油の貿易港にする(イメージ)

リユースを商売にする

江戸はもともと、古着や古道具をくり返し使う社会でした。これを幕府の事業として組織し、古着・古道具を集めて売る商売にします。ここも小普請組の出番です。

第5の柱:幕府商社をつくる

河井継之助の「鞘取り」を全国規模で

河井継之助は、米を安い土地で買い、高く売れる土地で売って、藩の財政を立て直したといわれます。安く買って高く売る、その差(鞘)を利益にする「鞘取り」です。

幕府には、全国に散らばる天領があります。各地の米や産物の値段を、どこよりも早くつかめる立場です。この情報網を使い、鞘取りを専門にする機関をつくります。小栗が史実で立ち上げた兵庫商社と一つにすれば、幕府直営の総合商社になります。梅干し、梅酒、名産品、石炭、鯨油を売るのも、この商社です。

開港地の波止場で輸出品を積み込む幕府商社
幕府商社が生糸・茶・石炭・酒を輸出する(イメージ)

稼ぎ頭は生糸と茶

開港後の日本の輸出は、生糸と茶が大半をしめていました。ヨーロッパでは蚕の病気が広がり、日本の生糸がとくに求められていたのです。幕府商社がまず力を入れるのは、この二つです。天領で桑を植えて養蚕を広げ、大奥を出た女性たちが働く製糸の作業場をつくります。梅酒や日本酒が海外で名前を知られるには時間がかかりますから、それまでは生糸と茶で稼ぎます。

梅酒と日本酒をブランドにして、海外へ

梅酒や日本酒は、ただ売るのではなく「ブランド」にします。天領ごとの名前をつけ、品質をそろえ、開港地の外国商人やパリ万博の場で売りこみます。日本の美術品に注目が集まり始めていたヨーロッパなら、日本の酒にも関心を持つ人は必ずいるはずです。

銀行をつくり、株式会社をすすめる

銀行をつくり、商人や幕臣が事業をおこせるよう資金を回します。あわせて、出資を集めて事業をおこす株式会社を、どんどんすすめます。兵庫商社を最初の見本にして、民間にも広げていきます。

幕府の銀行で小判や洋銀を数える番頭と商人たち
幕府が銀行をつくり、株式会社への出資をすすめる(イメージ)

通貨を立て直す

開港直後、日本と外国では金と銀の交換の割合が違ったため、大量の金貨が海外へ流れ出しました。幕府は小判を小さくして流出を止めましたが、そのせいで物価が大きく上がります。せっかく収入を増やしても、物価が上がればお金の値打ちは目減りします。銀行と一体で、通貨の量と質をきちんと管理する仕組みをつくります。

第6の柱:自由にする

関所を撤廃し、商売を自由に

関所はすべてなくし、人と物が自由に行き来できるようにします。商売も自由にし、規制をどんどんゆるめます。物が動けば、幕府商社の鞘取りもますます生きてきます。

撤廃された関所を自由に通り抜ける旅人と商人たち
関所を撤廃し、人と物が自由に行き来できるように(イメージ)

港をどんどん開く

開港は、ためらわずに進めます。貿易がふえればふえるほど、石炭も鯨油も梅酒も売れていきます。

関税は下げさせない

史実では1866年の改税約書で、輸入品の関税がおおむね5%に下げられ、幕府の大事な収入源が細りました。港はどんどん開きますが、関税は下げさせません。そのための交渉の後ろ盾になるのも、最初に固めた軍備です。

天領に入れ札(選挙)を。やがて職業選択の自由へ

天領をまとめる役人は、すぐれた人物を入れ札(投票)で選びます。日本で初めての選挙制度です。そして地方の天領から順に、職業を自由に選べるようにしていきます。

攘夷派と朝廷をどうおさえるか

ここまでの改革は、攘夷派から見れば許せないことばかりです。話し合いで分かり合える相手ではありません。だからこそ、最初に軍備を固めたのです。攘夷派は力でおさえます。

朝廷についても、この時期はまだ、家康がしたように力でおさえるしかないと考えます。家康は禁中並公家諸法度で朝廷を幕府の決まりのもとに置き、江戸時代の初めには幕府の圧力で天皇が譲位した例もありました。攘夷を強く求める朝廷が改革の邪魔をするなら、譲位を迫ることもためらいません。

本当に立て直せるのか

ここまでの改革で、幕府の財政は本当に健全になり、軍備も強くなるのでしょうか。私の見立てでは、筋は良いものの、すぐには健全化しません。改革によって、効き目が出るまでの時間がまったく違うからです。

効き目が出るまで改革
1〜2年千石以上の禄の半減、屋敷の賃貸・売却、家宝・甲冑の売却、大奥の削減
数年生糸と茶の輸出、石炭、鯨油、関税、幕府商社の鞘取り
10年単位梅、名産、ガラス・陶磁器、酒のブランド化、開墾

いちばん危ないのは、最初の2〜3年です。軍艦や造船所、反射炉には、先に大きなお金が出ていきます。一方で、家宝や甲冑の売却は一度きりです。この谷を越えるには、外国からの借款でつなぐ必要があります。史実の小栗も、フランスからの借款を計画していました。その間に長州征伐のような戦が起きれば、出費は一気にふくらみます。

もう一つの限界は、天領が全国の石高の1割強にすぎないことです。大名の領地からは税をとれないので、幕府だけが豊かになっても、国全体の軍備はそろいません。そう考えると、最後の廃藩置県は理想ではなく、財政から見ても避けられない一手なのです。

それでも、軍備は5年ほどで目に見えて強くなり、財政は10年がかりで立ち直ると考えます。最初の数年を借款と一度きりの売却で乗り切れるかどうか。それが分かれ目です。

結末:自ら幕府をたたみ、廃藩置県へ

ここが、この「もしも」でいちばん大事なところです。私は幕府を永遠に続けたいわけではありません。軍備を固め、財政を立て直し、産業をおこし、人材を育てる。それが終わったら、天皇のもとで幕府を解体し、藩もなくして県を置く。いまでいう廃藩置県です。

小栗にも、藩をなくして郡県制にする構想があったといわれます。史実では、その仕事は明治政府がやりました。けれど、幕府自身の手でそれができていれば、戊辰戦争で多くの血が流れることはなかったかもしれません。

史実の小栗はどこまでやったか

改革史実の小栗・幕府この「もしも」
造船所1865年に横須賀製鉄所に着手1862年に着手。造る・直す・売るまで
会社1867年に兵庫商社をつくる鞘取りの機関と合わせて幕府直営の総合商社に。株式会社を全国にすすめる
軍制洋式の軍制改革をすすめる海軍・陸軍とも実力で階級を決める
人事家柄の壁に阻まれ、小栗自身も何度も役を外される世襲廃止・完全な能力主義
国のかたち郡県制の構想があったといわれる幕府が自ら解体し、廃藩置県へ

まとめ:もし私が幕末の将軍だったら

問い答え(予想)
幕府は立て直せたか文久2年なら可能性はあった。軍備は5年ほど、財政は10年がかり。最初の2〜3年をどう乗り切るかがカギ
お金はどこから大奥の削減、禄の半減、屋敷の活用、家宝・甲冑の売却、遊郭の税、生糸と茶の輸出、関税
働き手は小普請・無役の幕臣、家を継げない次男・三男(天領と蝦夷地の開拓)、大奥を出た女性たち
反発はどうする先に軍備を固め、攘夷派は力でおさえる。譜代は領地に帰して自国を豊かにさせる
最後はどうなる天皇のもとで幕府を解体し、廃藩置県へ

筆者の感想

書いていて思ったのは、幕府には「使えるもの」がまだたくさん残っていた、ということです。全国の天領、各地の職人、蔵の家宝や武具、江戸の屋敷、そして仕事のない大勢の幕臣とその次男・三男。足りなかったのは、それを一度に動かす決断でした。

小栗は、その決断ができる立場にはいませんでした。大河ドラマ『逆賊の幕臣』では、小栗が幕府の中でどれほど歯がゆい思いをしたのかも描かれるはずです。あなたなら、将軍として何から手をつけますか。

よくある質問

文久の改革とは?

1862年(文久2年)に幕府がおこなった改革です。徳川慶喜を将軍後見職、松平春嶽を政事総裁職にし、参勤交代を3年に1度にゆるめ、大名の妻子が国元へ帰ることを許しました。

小普請組とは?

役職についていない旗本・御家人が入れられた組です。決まった仕事はなく、幕府の財政の重荷にもなっていました。

河井継之助の「鞘取り」とは?

安い土地で米を買い、高く売れる土地で売って、その差額を利益にするやり方です。河井はこうした商いで長岡藩の財政を立て直したといわれます。

韮山反射炉とは?

伊豆の韮山(いまの静岡県伊豆の国市)にある、幕末の反射炉です。代官の江川英龍が着工し、1857年に完成しました。大砲を鋳造するための炉で、2015年に世界遺産に登録されています。

2027年の大河ドラマは?

小栗忠順を主人公とする『逆賊の幕臣』です。

大河『豊臣兄弟!』IF特集
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子どものころ、父と一緒に見た大河ドラマ『独眼竜政宗』『武田信玄』で歴史が好きになり、年末の時代劇スペシャル『白虎隊』『五稜郭』で幕末にのめり込みました。『日本の歴史IFメディア』では、大河ドラマの時代に沿って歴史の「もしも」を取り上げ、史実と、城跡や古戦場を実際に歩いた体験をもとに記事を書いています。
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