もし関ヶ原で三成が島津義弘の助言をことごとく聞いていたら?赤坂夜襲で家康本陣が崩れた夜

9月14日夜 赤坂夜襲 西軍が杭瀬川をこえて家康本陣を攻める図(イメージ)

1600年9月14日の夜、大垣城。島津義弘は石田三成たちに「今夜のうちに赤坂の家康を夜襲すべきだ」と進言したと伝わります。家康はその日の昼に着いたばかりで、東軍は長い行軍でつかれている。ところが三成たちはこの策を退け、西軍は雨の中を関ヶ原へ移りました。翌15日、島津は戦場で最後まで動かず、西軍は一日で敗れます。

では、もし三成が島津の助言をことごとく聞いていたら? 先に私の答えを書きます。赤坂の夜襲は見事にはまり、家康の本陣は崩れていた。そうなれば、9月15日の関ヶ原の決戦は起きず、天下分け目の戦いはまったく違う形になっていたと思います。

9月14日夜 赤坂夜襲 西軍が杭瀬川をこえて家康本陣を攻める図(イメージ)
赤坂夜襲(イメージ)
目次

通説:三成は島津の言葉を聞かなかった

島津義弘のイラスト

関ヶ原の島津義弘は、わずか1千5百ほどの兵しか連れていませんでした。それでも朝鮮出兵で「鬼島津」と恐れられた歴戦の名将です。その島津と三成のあいだには、関ヶ原の前からすきま風が吹いていました。

ひとつめは8月23日です。東軍の黒田長政らが合渡川を渡って攻めてくると、沢渡にいた三成は大垣城へ引き上げました。このとき、近くの墨俣を守っていた島津には知らせがなく、置き去りにされたと言われます。同じ日には、東軍の福島正則らが岐阜城を落としています。

ふたつめが9月14日です。昼、家康が赤坂の岡山に着陣しました。西軍は島左近らが杭瀬川で東軍の中村一栄・有馬豊氏の兵を誘い出して破り、小さな勝ちをおさめます。その夜、島津は「今こそ夜襲を」と進言しました。けれど三成たちは「夜討ちは小勢のやることで、大軍がとる策ではない」として退けた、と伝わります。

そして9月15日。三成の使者が馬に乗ったまま島津に出撃を頼むと、甥の島津豊久は無礼だとして追い返したとも言われます。島津は最後まで戦いに加わらず、西軍が崩れたあとで敵の中を突っ切って逃げる「島津の退き口」で名を残しました。

ただし、夜襲の献策は関ヶ原から100年ほどあとにまとめられた軍記に出てくる話で、当時の手紙などでは確かめられていません。ここでは、伝わっている話のとおりに考えてみます。

ですが、もし三成が島津の助言をことごとく聞いていたら

石田三成のイラスト

8月の合渡川で島津を見捨てず、9月14日の夜には島津の夜襲策を取り上げていたら。三成が「戦の場数をふんだ島津の目」を信じていたら、関ヶ原の前夜はどう変わっていたでしょうか。

こうなったかもしれない

1. 8月、三成は墨俣の島津を見捨てない

8月23日 合渡川と墨俣 東軍の渡河と島津義弘の置き去り(イメージ)
8月23日、合渡川と墨俣(イメージ)

合渡川を東軍が渡ってきたとき、三成は島津に使いを出し、墨俣と沢渡で長良川・揖斐川の線をいっしょに守ります。岐阜城が落ちるのは止められなくても、引くなら島津とそろって大垣へ引く。

これだけで、島津の三成を見る目は変わります。「この男は味方を見捨てない」。この信頼が、9月14日の夜につながります。

2. 9月14日の昼、杭瀬川で勝つ

ここまでは史実と同じです。家康が赤坂に着いて東軍がざわつく中、島左近らが杭瀬川で東軍の先手を誘い出して破ります。大垣城の西軍は勢いづき、逆に東軍は家康の目の前で負けを見せたことになります。

3. その夜、島津の夜襲策を聞く

大垣城での軍議で、島津義弘が夜襲を進言します。三成はこれを退けず、宇喜多秀家も賛成します。

  • 島津義弘・豊久 約1千5百:先頭に立ち、家康の本陣がある岡山へ一直線
  • 宇喜多秀家 約1万7千:正面から赤坂の東軍の陣へ
  • 小西行長 約4千:杭瀬川ぞいの東軍の先手へ
  • 石田三成・島左近 約6千:南から回りこむ

大垣城には留守の兵を残し、3万ほどの西軍が夜半に城を出ます。その夜は雨でした。音も明かりも雨にまぎれ、西軍は杭瀬川をわたります。

4. 赤坂の家康本陣が崩れる

東軍は、その日のうちに岐阜から赤坂まで進んできたばかりです。家康も着陣して半日。陣の守りはまだ固まっていません。

そこへ、闇の中から島津が斬りこみます。「鬼島津」の兵は、まわりの陣には目もくれず、岡山の家康本陣へまっすぐ突き進みます。同じころ、宇喜多勢と小西勢が福島正則や黒田長政の陣に襲いかかります。

夜の戦いで、いちばん怖いのは同士討ちです。暗闇と雨で、どこまでが味方でどこからが敵かわかりません。もともと東軍は、徳川家の兵と豊臣恩顧の大名たちの寄せ集めです。おたがいを疑い始めれば、陣はばらばらに崩れていきます。

赤坂夜襲で本陣を捨てて脱出する徳川家康と、守る井伊直政・本多忠勝(イメージ)
本陣を捨てて脱出する家康と、守る井伊直政・本多忠勝(イメージ)

家康は、井伊直政や本多忠勝に守られて本陣を捨て、命からがら赤坂を抜け出します。討たれはしなくても、東軍はこの一夜で大きな打撃を受けたはずです。

5. 夜明け、南宮山と松尾山が動く

9月15日 夜明けの戦況 東軍の後退と南宮山・松尾山の西軍(イメージ)
9月15日、夜明けの戦況(イメージ)

夜が明けると、赤坂には西軍の旗が立っています。これを見ているのが、南宮山の毛利秀元・吉川広家と、14日に松尾山に入った小早川秀秋です。

吉川広家がひそかに家康と通じていたのも、小早川が東軍に寝返る約束をしていたのも、「家康が勝つ」と見ていたからでした。その家康が、一夜で本陣を捨てて逃げた。こうなれば、家康に味方する理由はありません。毛利も小早川も、西軍として山を下りてきます。

小早川秀秋のイラスト

東軍は赤坂を捨て、中山道を岐阜城へ退きます。家康は尾張の清洲城まで下がり、立て直しを図ることになるでしょう。

※兵力や陣の位置には諸説あります。

関ヶ原の一日決戦は起きなかった

史実の家康は、関ヶ原の一日で西軍をまとめて片付け、天下を取りました。でも赤坂の夜襲が成功していれば、その一日はやってきません。

中山道を進んでいた秀忠の3万8千は、史実でも上田で真田昌幸に足止めされ、関ヶ原に間に合いませんでした。家康は秀忠の到着を待ちながら、清洲で態勢を立て直すしかありません。そのあいだに、豊臣恩顧の大名たちは「本当に家康についていていいのか」と考え始めます。家康の天下取りは、ここで大きくつまずいたと私は思います。

筆者の感想

関ヶ原古戦場の馬防柵と旗
関ヶ原古戦場(筆者撮影)

関ヶ原の島津は、「動かなかった島津」として語られます。でもその前に、三成と島津のあいだには、置き去りにされたこと、進言を退けられたことと、小さな行きちがいが積み重なっていました。島津が動かなかったのは、その結果だったのかもしれません。

三成がもう少しだけ、戦の場数をふんだ島津の言葉に耳をかたむけていたら。関ヶ原は、天下分け目の一日ではなく、家康が本陣を捨てて逃げた一夜として語られていたのではないでしょうか。

あなたは、三成が島津の夜襲策を聞いていたら、関ヶ原はどうなったと思いますか?

よくある質問

島津義弘の夜襲の献策は本当にあったの?

関ヶ原の前夜、島津義弘(甥の豊久とも)が赤坂の家康への夜襲を進言し、三成たちに退けられたという話は、関ヶ原から100年ほどあとの軍記などに出てきます。当時の手紙などでは確かめられておらず、後の時代に作られた話とみる研究者もいます。

島津の退き口とは?

関ヶ原で西軍が崩れたあと、島津義弘が退却するのではなく、東軍の真ん中を突っ切って戦場を抜け出した戦いです。小部隊を残して追手を食い止めながら逃げ、甥の豊久らが討ち死にしました。薩摩に帰りついたのは、わずか数十人だったと伝わります。

杭瀬川の戦いとは?

関ヶ原の前日、9月14日に大垣城の近くで起きた小さな戦いです。石田三成の家臣・島左近らが、杭瀬川の向こうにいた東軍の中村一栄・有馬豊氏の兵を誘い出して破りました。家康が赤坂に着いたばかりの東軍に、西軍が一矢を報いた形になりました。

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