もし家康が大坂の陣の前に亡くなっていたら?秀忠は大坂城を落とせず、豊臣家は「大名」として生き残れた

もし家康が大坂の陣の前に亡くなっていたら

大坂の陣が始まった1614年、徳川家康は73歳でした。当時としてはかなりの長生きです。豊臣方の中には、家康の寿命が尽きるのを待てば、豊臣家にも道が開けると考えていた人たちもいたと言われます。

では、もし家康が大坂の陣の前に亡くなっていたら? たとえば1613年ごろ、方広寺の鐘の騒ぎが起きる前に、家康が病に倒れていたとしたら。

先に私の答えを書きます。豊臣家は滅びずにすんだと思います。将軍の秀忠には、大坂城を落とすための「段取り」をつけられる力がなかったからです。ただしその代わり、豊臣家は天下人の家ではなく、徳川の親戚の大名として生きていくことになったでしょう。

徳川家康

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目次

通説・史実:家康は「最後の仕事」として豊臣家を滅ぼした

年 出来事
1603年 家康が征夷大将軍になる。孫の千姫が豊臣秀頼に嫁ぐ
1605年 家康が将軍職を秀忠にゆずり、大御所として駿府から政治を動かす
1611年 京の二条城で、家康と秀頼が会う。この年、加藤清正が亡くなる
1613年 池田輝政、浅野幸長など、豊臣家と縁の深い大名が相次いで亡くなる
1614年 方広寺鐘銘事件。片桐且元が大坂城を去り、大坂冬の陣が始まる。和睦で堀が埋められる
1615年 大坂夏の陣。豊臣家が滅びる
1616年4月 家康が駿府で亡くなる(75歳)

家康は、豊臣家が滅びたわずか1年後に亡くなっています。まるで、自分が生きているうちに豊臣家の問題を片づけておこうとしたかのようです。

しかも大坂の陣は、力ずくで攻め落とした戦ではありませんでした。鐘の銘文を問題にして交渉役の片桐且元と大坂城の仲を割り、冬の陣では無理な力攻めをせずに和睦へ持ちこみ、その和睦で堀を埋める。家康は、大坂城を落とすまでの段取りを、一つひとつ組み立てていったのです。

徳川秀忠
豊臣秀頼
本多正信

ですが、もし家康が大坂の陣の前に亡くなっていたら

もし家康が1613年ごろに亡くなっていたら。将軍の秀忠は30代半ばで、すでに幕府の主です。大坂城の秀頼は20歳をこえ、立派な若者になっています。そして秀頼の妻・千姫は、秀忠の娘です。

家康という大きな重しが外れたとき、徳川と豊臣の関係はどう動いたでしょうか。

こうなったかもしれない

1. 秀忠は、すぐには大坂を攻められない

家康が亡くなれば、徳川家はまず代がわりを固めなければなりません。大名たちが新しい将軍にきちんと従うかを見きわめ、家康の側近たちの役目を整理する。そんなときに大きな戦を起こすのは危険です。

しかも、大坂を攻めるには「理由」が要ります。史実の家康は、方広寺の鐘の銘文をきっかけにしました。秀忠が自分の娘の嫁ぎ先を攻めるには、それなりの口実が必要です。

2. 秀忠には、家康のような「段取り」がない

秀忠は、まじめで実務に強い将軍でした。でも、関ヶ原の戦いでは上田城の真田にてこずって本戦に間に合わず、家康にきびしく叱られています。大坂の陣でも、秀忠は力攻めを望み、家康がそれをおさえたと言われます。

もし秀忠が自分の判断で大坂城を攻めていたら、堀が埋まっていない大坂城に、正面から大軍をぶつけることになったでしょう。真田丸の戦いのように、攻め手が大きな損害を出す戦いがくり返されたはずです。

堀の残る大坂城を前に攻めあぐねる秀忠の軍勢
堀の残る大坂城を前に攻めあぐねる徳川軍(イメージ)

3. 長い戦は、大名たちの不満を生む

大坂城を力攻めで落とすには、何か月もかかったかもしれません。兵を出し続ける大名たちの負担は大きくなり、不満もたまります。家康なら、そうなる前に交渉に切りかえたでしょう。秀忠と、その側近の若い世代に、同じことができたかどうか。

結局、長引いた戦は、豊臣家に有利な条件での和睦で終わったと思います。少なくとも、堀を埋めるような一方的な条件をのませることは、できなかったはずです。

4. 千姫が、二つの家をつなぐ

戦にならなければ、大きな役目を果たすのが千姫です。秀忠にとっては実の娘、秀頼にとっては妻。家康がいなくなったあと、徳川と豊臣をつなぐいちばん太い糸は、千姫でした。

二人のあいだに子が生まれれば、その子は将軍・秀忠の孫になります。徳川にとって、豊臣家は「滅ぼすべき相手」から「守るべき親戚」へと変わっていったかもしれません。

5. それでも豊臣家は、天下人には戻れない

ただし、豊臣家が天下を取り戻すことはありません。1611年から1613年にかけて、加藤清正や池田輝政、浅野幸長といった、豊臣家と縁の深い大名が次々と亡くなっています。家康が亡くなっても、豊臣家のために立ち上がる大名は、もうほとんど残っていませんでした。

時がたつほど、大名たちは「徳川の世」に慣れていきます。秀頼は、摂津・河内・和泉を治める大名として、徳川の世の中に組みこまれていったでしょう。

6. 最後は大坂城を出て、大大名として残る

とはいえ、天下一の城・大坂城に豊臣家がいる限り、幕府にとっては落ち着かない火種です。いずれは、大坂城を出て別の国へ移ることを求められたと思います。

私は、秀頼がそれをのめば、豊臣家は加賀の前田家のように、江戸時代を通して続く大大名になれたと考えます。家康が先に亡くなることで、豊臣家は「滅びるか、従うか」を選ぶ時間を手に入れられたのです。

まとめ

  • 家康は、豊臣家を滅ぼす段取りを一つずつ組み立てた
  • 家康が先に亡くなれば、秀忠はすぐには大坂を攻められない
  • 秀忠が力攻めをしても、堀の残る大坂城は簡単には落ちない
  • 千姫が徳川と豊臣をつなぎ、豊臣家は「親戚の大名」になる
  • 天下人には戻れないが、大坂城を出れば大大名として生き残れた

筆者の感想

この「もしも」を考えて、あらためて家康のすごさを感じました。大坂の陣は、大軍の力だけで勝った戦ではありません。鐘の銘文、交渉役の追い出し、和睦と堀の埋め立て。一つでも順番がくるえば、大坂城は落ちなかったかもしれないのです。

豊臣方が家康の寿命を待っていたのは、決してまちがいではなかったと思います。ただ、家康のほうが一枚上手で、自分の命があるうちに決着をつけました。73歳で冬の大坂に出陣した家康の執念を思うと、豊臣家はいちばん手ごわい相手と、いちばん悪い時期にぶつかってしまったのだと思います。

あなたは、家康が大坂の陣の前に亡くなっていたら、豊臣家は生き残れたと思いますか?

よくある質問

大坂の陣のとき、家康は何歳だったの?

冬の陣のときに73歳、夏の陣のときに74歳でした(数え年)。大坂の陣の翌年、1616年に75歳で亡くなっています。

秀忠と秀頼はどういう関係?

秀頼の妻・千姫は秀忠の娘なので、秀忠は秀頼にとって義理の父にあたります。1603年、千姫は7歳で秀頼に嫁ぎました。

方広寺鐘銘事件とは?

1614年、秀頼が再建した京の方広寺の鐘に刻まれた「国家安康」「君臣豊楽」の文字を、徳川方が家康をのろうものだと問題にした事件です。これがきっかけで大坂の陣が起こりました。

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