1600年9月15日の関ヶ原。東軍を率いる徳川家康のそばに、息子の秀忠の姿はありませんでした。秀忠が率いていた徳川の本隊、3万8千ほどの大軍は、信濃の上田城で真田昌幸に足止めされ、決戦に間に合わなかったのです。
では、もし秀忠が上田の真田を相手にせず、まっすぐ関ヶ原へ向かっていたら? 先に私の答えを書きます。関ヶ原は「豊臣恩顧の大名が勝たせた戦い」ではなく「徳川が自分の兵で勝った戦い」になり、家康は西国の大きな領地を豊臣恩顧の大名に分けずにすんだと思います。

通説:秀忠は上田で足止めされた

1600年8月24日、秀忠は宇都宮を出て、中山道を西へ向かいました。従うのは本多正信、榊原康政、大久保忠隣ら徳川家の重臣たち。兵は3万8千ほどで、家康が自分で率いた兵よりも多い、徳川家のまさに主力でした。
9月はじめに信濃の小諸に着いた秀忠は、西軍についた上田城の真田昌幸に降伏をすすめます。昌幸は降伏するそぶりを見せて時間をかせぎ、いざ攻めかかると巧みに兵を動かして徳川勢をてこずらせました。これが第二次上田合戦です。

そうしているうちに、家康からの「急いで美濃へ来い」という使いが届きます。川の増水で使いが遅れていたとも言われます。秀忠はあわてて上田を離れましたが、木曽路の山道は険しく、関ヶ原の戦いには間に合いませんでした。秀忠が家康に追いついたのは、戦いから5日後の近江の大津です。家康は怒って、しばらく秀忠に会おうとしなかったと伝わります。
ただ最近は、秀忠はもともと上田の真田を攻めるよう命じられていて、遅れたのは秀忠だけのせいではない、という見方もあります。家康が思ったより早く西へ向かうことになったため、命令が変わったのに秀忠のもとへ届くのが遅れた、というわけです。
ですが、もし秀忠が上田を相手にせず、関ヶ原に間に合っていたら






上田城(筆者撮影)
昌幸の降伏の申し出が時間かせぎだと見抜き、上田には押さえの兵だけを残して先を急いでいたら。秀忠の3万8千が、9月14日に赤坂の家康の本陣に着いていたら。関ヶ原は、どう変わっていたでしょうか。
こうなったかもしれない
1. 上田には押さえだけを残して先を急ぐ

昌幸が頭を丸めて降伏したいと言ってきたとき、本多正信がこう言ったとします。「真田は時間をかせいでいるだけです。上田は小さな城、いつでも落とせます。今は美濃へ急ぐべきです」
秀忠は上田に、昌幸の長男で東軍についた真田信幸や、川中島の森忠政、小諸の仙石秀久らを押さえに残し、本隊を率いて中山道を西へ急ぎます。真田は城から出てこられません。3万8千の大軍は、木曽路の山道を休まず進みます。

2. 9月14日、赤坂に徳川の本隊がそろう

9月14日の夕方、美濃の赤坂。家康がこの日に着いたばかりの本陣に、秀忠が駆けこみます。三つ葵の旗をかかげた徳川の大軍が、次々と赤坂に入ってきます。
これで家康の手元には、自分の兵と秀忠の兵をあわせて、徳川家だけで7万に近い兵がそろいました。福島正則や黒田長政ら豊臣恩顧の大名たちに頼らなくても、徳川の兵だけで西軍と戦える数です。
秀忠が率いた軍の顔ぶれ
秀忠の3万8千は、どんな武将たちだったのでしょうか。一人ひとりの兵数ははっきり残っていないので、領地の石高から見たおおよその目安を書いておきます(1万石あたり250〜300人ほどで計算)。
関ヶ原へ向かう本隊
- 徳川秀忠(総大将)と旗本衆:1万数千
- 榊原康政(上野館林10万石):約3千。徳川四天王の一人で、秀忠の後見役
- 本多忠政(本多忠勝の嫡男):約2千5百。父の忠勝は家康のそばにいたため、本多家の主力は忠政が率いた
- 大久保忠隣(相模小田原6万5千石):約2千。のちに秀忠の側近として力をふるう
- 小笠原秀政(下総古河3万石):約1千
- 酒井家次(下総臼井3万7千石):約1千。徳川四天王・酒井忠次の嫡男
- 牧野康成(上野大胡2万石):約6百。上田で真田を挑発した部隊
- 本多正信(相模玉縄1万石):兵は少ないが、家康が秀忠につけた知恵袋
上田の押さえに残る組
- 真田信幸(上野沼田2万7千石):約8百。昌幸の長男で、本多忠勝の娘・小松姫の夫。父と弟を相手に、徳川方として上田を見張る
- 森忠政(信濃川中島13万7千石):約3千
- 仙石秀久(信濃小諸5万石):約1千5百
- 石川康長(信濃松本8万石):約2千
このうち押さえ組を上田に残しても、関ヶ原へ向かえる兵は3万人をこえます。
ちなみに鳥居家は、当主の鳥居元忠が伏見城で西軍を引きつけて討ち死にしており、秀忠の軍の主な顔ぶれには名前が見えません。
上田の押さえで目を引くのは、真田信幸です。史実でも信幸は秀忠の軍にいて、弟の信繁が守っていた戸石城を受け取っています。このもしもでは、信幸が父・昌幸と弟・信繁のこもる上田城を見張ることになります。真田家は、親子兄弟が城の内と外に分かれて向き合うのです。
※兵数は石高からの目安で、諸説あります。
3. 関ヶ原は「徳川の戦い」になる

史実の関ヶ原で、最前線で戦ったのは福島正則、黒田長政、細川忠興、藤堂高虎ら、もともと豊臣家の大名たちでした。徳川家の兵で目立って戦ったのは、井伊直政と松平忠吉くらいです。家康の本隊は、うしろの桃配山にひかえていました。
秀忠の軍が着いていれば、関ヶ原の東軍は様子が変わります。家康の本陣の前に、徳川の大軍がずらりと並ぶ。松尾山の小早川秀秋から見れば、どちらが勝つかは一目でわかります。迷っていた秀秋は、もっと早い時間に東軍として山を下りたはずです。
戦いは昼を待たずに決着がついたかもしれません。西軍が崩れたあと、島津義弘は敵の中を突っ切って逃げましたが(島津の退き口)、目の前に徳川の大軍が並んでいれば、それもずっとむずかしかったでしょう。
4. 戦いのあとの恩賞が変わる
いちばん大きく変わるのは、戦いのあとです。
史実では、関ヶ原で手柄を立てた豊臣恩顧の大名たちに、家康は大きな領地を与えなければなりませんでした。福島正則は清洲20万石から安芸・備後49万8千石へ、黒田長政は中津12万石から筑前52万3千石へ、池田輝政は吉田15万石から播磨52万石へ。西国の大事な場所が、ほとんど豊臣恩顧の大名のものになったのです。
徳川の兵で勝っていれば、家康はそこまで気をつかう必要はありません。手柄を立てたのは徳川の家臣たちです。安芸や筑前、播磨といった西国の要地には、徳川の一門や譜代の家臣を置くことができたでしょう。豊臣家のまわりを、徳川の大名で囲むことができたのです。
では、徳川の家臣たちにどんな恩賞を与えたでしょうか。私が家康なら、こう配ります。
もしもの恩賞(徳川の家臣・一門)
- 榊原康政:上野館林10万石 → 安芸広島40万石(史実では福島正則の領地)。秀忠を関ヶ原に間に合わせた後見役として、西国の押さえの要に
- 本多忠勝・忠政父子:上総大多喜10万石 → 筑前福岡40万石(史実では黒田長政の領地)。九州の入口をにらむ
- 井伊直政:上野高崎12万石 → 播磨姫路35万石(史実では池田輝政の領地)。大坂の西をふさぐ
- 大久保忠隣:相模小田原6万5千石 → 紀伊和歌山30万石(史実では浅野幸長の領地)。大坂の南をおさえる
- 酒井家次:下総臼井3万7千石 → 近江佐和山15万石。三成の旧領で、大坂と江戸を結ぶ道を守る
- 小笠原秀政:下総古河3万石 → 豊前小倉15万石(史実では細川忠興の領地)
- 本多正信:相模玉縄1万石のまま。史実でも大きな領地を受けなかった人で、このもしもでも「わしは知恵だけでよい」と辞退する
結城秀康の越前67万石と、松平忠吉の尾張52万石は史実のとおりです。
豊臣恩顧の大名は
福島正則や黒田長政、池田輝政らにも加増はあります。ただし、史実のように西国の大国を丸ごと与えるのではなく、10万石前後の加増で、四国や東国に移すかたちになったでしょう。手柄の中心が徳川の家臣なら、それで文句は言えません。
こうして地図を見ると、大坂城の西の播磨に井伊、南の紀伊に大久保、東の近江に酒井。豊臣家は、徳川の大名にぐるりと囲まれることになります。
※恩賞の配分は筆者の考えた「もしも」です。
5. 秀忠は、跡継ぎとしての立場を固める
史実の秀忠は、関ヶ原に遅れたことで「戦の下手な二代目」と言われ続けました。家康が重臣たちに「跡継ぎは誰がいいか」とたずねたとき、秀忠のほかに兄の結城秀康や弟の松平忠吉の名も挙がった、という話も伝わっています。
関ヶ原に間に合い、徳川の主力を率いて勝っていれば、秀忠の立場は戦いの直後からゆるぎないものになります。秀忠自身も、父に負い目を感じることなく二代目の道を歩めたはずです。
※兵力や日付には諸説あります。
大坂の陣は、もっと早く終わっていた
史実の家康は、関ヶ原のあとも14年かけて、ようやく大坂の陣で豊臣家を滅ぼしました。そのあいだ、西国にいる福島正則や加藤清正ら豊臣恩顧の大名が、いつ豊臣家の味方に回るかに気をつかい続けたのです。
秀忠が間に合い、西国を徳川の大名でかためていれば、豊臣家はもっと早く孤立していたでしょう。大坂の陣のような大きな戦をしなくても、豊臣家を一大名として従わせることができたかもしれません。秀忠の遅刻は、徳川家にとって14年分の回り道だったのだと私は思います。
筆者の感想

上田城は、大きな城ではありません。けれど実際に歩いてみると、思っていたよりずっと堅い城だと感じました。正門の反対側、南は崖になっていて、その下にはかつて千曲川の流れがありました。尼ヶ淵と呼ばれる場所です。南からはまず攻められない。大軍でも攻め口は限られてしまいます。
そして何より、昌幸の謀略です。秀忠が降伏をすすめると、昌幸は頭を丸めて「降伏します」と答えます。そのうえで「城を明け渡す支度に数日待ってほしい」と時間をかせぎ、すっかり守りを固めたところで手のひらを返しました。このとき秀忠は22歳、昌幸は50代半ば。戦国を生きぬいてきた昌幸は、若い秀忠より一枚も二枚も上手でした。
秀忠が昌幸の言葉を信じず、上田を相手にせずに先を急いでいたら、真田の名は関ヶ原の歴史にそれほど残らなかったでしょう。ほんの数日の足止めが、徳川の天下の形まで変えてしまった。歴史のおもしろさだと思います。
あなたは、秀忠が関ヶ原に間に合っていたら、その後の日本はどうなったと思いますか?
よくある質問
秀忠はなぜ関ヶ原に間に合わなかったの?
中山道を進む途中、信濃の上田城で真田昌幸と戦い、足止めされたためです。家康からの「急いで美濃へ来い」という使いが川の増水で遅れて届いたこと、木曽路の山道が険しかったことも重なりました。もともと上田攻めを命じられていたという見方もあります。
第二次上田合戦とは?
1600年9月、上田城の真田昌幸・信繁父子が、中山道を進む徳川秀忠の大軍を相手に戦った合戦です。昌幸は降伏するそぶりで時間をかせぎ、少ない兵で徳川勢をてこずらせました。
秀忠はどのくらい遅れたの?
関ヶ原の戦いは9月15日でしたが、秀忠が家康に追いついたのは5日後、近江の大津でした。家康は怒って、しばらく会おうとしなかったと伝わります。





