大河ドラマ『豊臣兄弟!』第43回「殿下の刀狩り」では、佐々成政が秀吉から切腹を命じられます。九州平定のあと肥後一国をまかされた成政は、わずか1年足らずで国を治めきれず、命まで失うことになりました。
成政といえば、信長の家臣として柴田勝家とともに北陸で戦い、秀吉とは最後まで張り合った武将です。雪の北アルプスを越えて家康に会いに行った「さらさら越え」の話でも知られています。
では、もし成政が肥後の一揆を乗りきり、切腹をまぬがれていたら、九州と日本の歴史はどう変わったのでしょうか。

先に結論:肥後に加藤清正は来ず、熊本城は生まれなかった。ただし成政が生き残る道はとても細かった
先に私の答えを書いておきます。成政が肥後に残っていれば、そのあとに肥後へ入った加藤清正と小西行長は、肥後の大名になりませんでした。清正が築いた熊本城も、少なくともいまの形では生まれなかったはずです。
ただし、成政が生き残るには、一揆を自分の力で早く抑え、秀吉に「肥後は成政にまかせておける」と思わせる必要がありました。かつて秀吉と戦った成政には、失敗の言い訳が許されません。成政が助かる道は、もともととても細かったと思います。
史実:佐々成政の肥後入りから切腹まで
| 時期 | 出来事 |
|---|---|
| 1584年 | 小牧・長久手の戦いのころ、成政は秀吉に対抗し、冬の立山連峰を越えて浜松の家康に会いに行く(さらさら越え) |
| 1585年 | 秀吉の越中攻めで降伏。越中の大半を失い、秀吉の家臣となる |
| 1587年5月 | 九州平定のあと、肥後一国を与えられ隈本城に入る |
| 1587年7月 | 成政が検地を進めたことに反発し、隈部親永ら肥後の国衆が一揆を起こす |
| 1587年10月 | 京都で北野大茶湯がひらかれるが、10日間の予定が1日で終わる |
| 1587年末ごろ | 秀吉が送った九州・四国の大名の軍勢により、一揆がようやく鎮まる |
| 1588年閏5月 | 責任を問われ、摂津の尼崎で切腹 |
| 1588年 | 肥後は北半分が加藤清正、南半分が小西行長に与えられる。7月には刀狩令が出される |
一揆は肥後の北部から始まり、古くからの国衆の多くが加わって、およそ5か月も続きました。成政ひとりの力では抑えられず、秀吉が周りの大名を送りこんで、ようやく鎮まったのです。

なぜ肥後の一揆は起きたのか
肥後は、小さな国衆がたくさんいる、治めにくい国でした。秀吉は成政に肥後を与えるとき、国衆の領地を当面は認め、急いで検地をしないように言い聞かせていたと伝わります。
ところが成政は、自分の家臣たちに与える土地を確保するため、検地を進めます。越中から連れてきた家臣を養うには、土地が足りなかったからです。自分の土地を調べられ、取り上げられると感じた国衆たちは、隈部親永を中心に立ち上がりました。
成政にも事情はありました。けれど結果として、秀吉の言いつけを守らず、国を乱したという形になってしまったのです。
北野大茶湯が1日で終わった理由と肥後の一揆
第42回で描かれた北野大茶湯は、1587年10月1日、京都の北野天満宮でひらかれました。身分に関係なく、だれでも茶をたしなむ者は参加してよいという、秀吉らしい大きな茶会です。
この茶会は10日間の予定でしたが、実際には1日で終わってしまいます。理由ははっきりしていませんが、九州で一揆が起き、大名たちがその対応に追われたためだという説があります。ちょうど肥後の一揆が広がっていた時期です。

もしこの説のとおりなら、成政の失敗は、秀吉が楽しみにしていた天下一の茶会まで台なしにしたことになります。秀吉の怒りがどれほどだったかは、想像にかたくありません。
もしも:成政が切腹していなかったら
第1段階:成政が一揆を自力で抑える(1587年)
一揆が起きたとき、成政がすぐに検地を止め、国衆の領地を認めなおして、話し合いで一揆を収めたとします。周りの大名の手を借りずに済めば、秀吉の顔をつぶさずに済みます。
茶会が1日で終わることもなかったかもしれません。秀吉は「成政もよくやった」と、ひとまず肥後をまかせ続けます。
第2段階:加藤清正と小西行長は肥後に来ない(1588年)
史実では、成政が切腹したあと、肥後の北半分を加藤清正が、南半分を小西行長が治めることになりました。成政が残れば、この二人の行き先は変わります。清正はまだ若い秀吉子飼いの武将で、別の土地を与えられていたでしょう。
清正は、のちに隈本の地に大きな城を築き、名前も「熊本」と改めます。それがいまの熊本城です。成政が肥後に残っていれば、熊本城は少なくともいまの形では生まれず、肥後の中心は成政の隈本城のままだったはずです。

第3段階:朝鮮出兵で肥後の兵を率いるのは成政
史実では、朝鮮出兵で先陣を切ったのは、肥後の清正と行長でした。成政が肥後の大名なら、肥後の兵を率いて海を渡るのは成政です。ただ、このころ成政はすでに50代の後半です。若い清正や行長のように、朝鮮の奥深くまで攻めこむ戦い方はできなかったかもしれません。
第4段階:関ヶ原で家康に付く九州の大名に
成政は、かつて雪の山を越えてまで家康を頼った武将です。秀吉が亡くなり、天下が家康と石田三成に分かれたとき、成政が家康に付くのは自然な流れでしょう。

史実では、清正が九州で家康方として動き、小西行長の宇土城を攻めました。成政が生きていれば、その役を担うのは成政だったかもしれません。ただし、成政の生まれ年には諸説あり、関ヶ原のころには60代から80代です。実際に兵を率いるのは跡継ぎだったはずです。
その先:熊本城のない熊本
熊本城は、西南戦争で西郷軍の攻撃に耐えぬいた城としても知られます。もし熊本城がなければ、1877年の西南戦争で、政府軍は九州の拠点をどこに置いたのでしょうか。熊本という町の名前も、成り立ちも、まったく違うものになっていたかもしれません。




成政ひとりの生き死にが、300年後の戦いの舞台まで変えてしまう。歴史のつながりの不思議さを感じます。
それでも成政が助かるのは難しかった
ここまで書いてきましたが、正直に言うと、成政が助かる見こみはかなり低かったと思います。理由は三つあります。
一つ目は、成政がかつて秀吉と最後まで戦った相手だったことです。秀吉にとって成政は、許して家臣にしたものの、心から信用できる相手ではありませんでした。
二つ目は、秀吉にとって肥後の一揆が、全国を締めつける口実になったことです。一揆のすぐあと、1588年7月に刀狩令が出されます。農民や寺社から武器を取り上げる政策で、肥後の一揆はその必要性を示す例になりました。
三つ目は、肥後を清正や行長のような秀吉子飼いの武将にまかせたいという思惑です。九州は朝鮮出兵の前線になる土地でした。秀吉は、信用できる若い家臣を置きたかったはずです。
まとめ:佐々成政が切腹していなかったら
| 問い | 答え(予想) |
|---|---|
| 成政は助かったか | 一揆を自力で早く抑えられれば可能性はあった。ただし秀吉の信用は薄く、道は細い |
| 肥後はどうなったか | 加藤清正と小西行長は肥後に来ない |
| 熊本城は | 少なくともいまの形では生まれなかった |
| 朝鮮出兵は | 肥後の兵を率いるのは成政。ただし高齢で、清正ほど攻めこめなかった可能性 |
| 関ヶ原では | 家康に付く九州の大名になった可能性が高い |
| 刀狩りは | 肥後の一揆が小さく済めば、口実の一つが減る。ただし全国の流れは変わらなかった |
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筆者の感想
成政というと、どうしても「さらさら越え」の豪胆なイメージが先に立ちます。けれど肥後での失敗を見ると、家臣を養うために無理をした、ひとりの苦しい大名の姿が見えてきます。
今夜の『豊臣兄弟!』で、成政の最期がどう描かれるのか楽しみです。あなたは、成政に生き残る道はあったと思いますか。
よくある質問
佐々成政はなぜ切腹したの?
肥後の大名になったあと、検地を進めたことで国衆の一揆を招き、国を乱した責任を問われたためです。1588年閏5月、摂津の尼崎で切腹しました。
肥後国人一揆とは?
1587年、肥後の国衆が佐々成政の支配に反発して起こした一揆です。隈部親永らが中心となり、約5か月続きました。秀吉が送った周りの大名の軍勢によって鎮められました。
北野大茶湯はなぜ1日で終わったの?
はっきりした理由はわかっていません。九州で一揆が起きたためという説のほか、秀吉が疲れたため、気まぐれだったためなど、いくつかの説があります。
さらさら越えとは?
1584年、佐々成政が秀吉に対抗するため、冬の立山連峰を越えて浜松の徳川家康に会いに行ったとされる出来事です。
2026年の大河ドラマは?
豊臣秀長を主人公とする『豊臣兄弟!』です。









