ドラマ『真田十勇士 SHADOWS OF THE TEN NINJA』の第1話では、九度山で死の床についた真田昌幸が、息子の幸村(信繁)に「この無念、お前が晴らしてくれ」と言い残しました。上田城で徳川の大軍を二度も退けた知将は、大坂の陣を見ることなく世を去ります。
では、もし昌幸が生きていて、信繁とともに大坂城に入っていたら? 先に私の答えを書きます。昌幸の名があれば、信繁だけでは通らなかった策も通ったかもしれません。冬の陣はもっと長引き、徳川は大きな損害を出したでしょう。それでも、大軍と時間を味方につけた家康には勝てなかったと思います。

通説・史実:大坂の陣の3年前に世を去った昌幸
| 年 | 出来事 |
|---|---|
| 1585年 | 第一次上田合戦。昌幸が上田城で徳川の大軍を退ける |
| 1600年 | 第二次上田合戦。昌幸と信繁が、関ヶ原へ向かう徳川秀忠の大軍を上田城で足止めする。関ヶ原のあと、兄・信之の取りなしで死罪をまぬがれ、高野山のふもとの九度山へ流される |
| 1602年 | 九度山で信繁の長男・大助が生まれる |
| 1611年6月 | 赦免を待ちながら、昌幸が九度山で亡くなる。65歳 |
| 1614年10月 | 信繁が豊臣方の誘いを受けて九度山を抜け出し、大坂城に入る |
| 1614年12月 | 大坂冬の陣。信繁は出城「真田丸」で徳川方を撃退する。その後に和睦が結ばれ、大坂城の堀が埋められる |
| 1615年5月 | 大坂夏の陣。信繁は家康の本陣に迫るが討死し、豊臣家が滅びる |
昌幸は、信之を通じて徳川に赦免を願い続けましたが、許されることはありませんでした。九度山で再起にそなえて武芸を磨いていたという話は、のちの講談でつくられたものとされます。実際の晩年は、赦免の知らせを待ちながら静かに暮らしていたようです。
一方で、昌幸が死の前に、信繁へ徳川と戦うときの策を伝えたという話が、江戸時代の軍記物などに残っています。城にこもる前に打って出て、徳川の大軍を途中で食い止める。ただし、その策は「自分の名があれば通るが、お前の名では通らないだろう」と言ったというのです。史実かどうかは確かめられませんが、昌幸という人の重みをよく伝える話です。



ですが、もし昌幸が大坂城に入っていたら
もし昌幸があと数年生きていて、1614年に信繁とともに大坂城へ入っていたら。年は68歳。家康より5歳若いだけですが、上田城で徳川を二度破った実績は、大坂城に集まったどの浪人よりも重いものでした。
伝承の中の昌幸の言葉どおり、足りなかったのは策ではなく「名」だったのか。昌幸がいたら、大坂の陣のどこが変わったのかを考えます。
こうなったかもしれない
1. 九度山から、上田の旧臣が集まる
史実の信繁は、少ない家来とともに九度山を抜け出しました。けれど昌幸が大坂へ向かうと知れば、話は変わります。上田で昌幸のもとに戦った旧臣たちの中には、「大殿のためなら」と駆けつける者もいたはずです。
もちろん、信濃の上田はすでに信之の領地で、多くの旧臣は信之に仕えています。大っぴらに大坂へ走れば、信之の真田家が徳川ににらまれます。集まるのは、浪人になっていた者や、ひそかに抜け出す者が中心でしょう。それでも、昌幸の名で集まった兵は、寄せ集めの浪人とはちがう、真田の戦い方を知る兵でした。
2. 軍議で、昌幸の策が通る
冬の陣の前、大坂城では城にこもるか、打って出るかの軍議が開かれたと伝わります。信繁や後藤又兵衛は、城を出て宇治や瀬田で徳川を迎え撃つ策を出しましたが、大野治長ら城の上層部に退けられ、籠城に決まったとされます。この話の出どころは江戸時代の軍記物で、史実とは言いきれません。それでも、外から来た浪人の声が通りにくかったことは確かでしょう。
ここに昌幸がいたら。秀吉からも「表裏比興の者(くわせもの)」と呼ばれた、豊臣政権の大名だった人物です。淀殿や大野治長も、昌幸の言葉を浪人の意見として軽くあつかうことはできません。伝承の昌幸が言ったとおり、「昌幸の策」なら通った見こみは十分にあります。

3. 城の外で徳川を食い止める
ただし、打って出る策そのものには無理もありました。徳川方の先手は、1614年10月の半ばには伏見に着いています。大坂方が兵を集め終える前に、宇治や瀬田を固めるのは難しかったはずです。
そこで昌幸がとるのは、上田合戦と同じ戦い方だと思います。大軍を真正面で止めるのではなく、城の外に出城や仕掛けをつくって敵を引きつけ、深入りしたところを横からたたく。史実の信繁が築いた真田丸は、まさにこの戦い方でした。昌幸がいれば、真田丸のような出城が一つではなく、城のまわりにいくつも並んだかもしれません。打って出る策がもし通っていたらどうなったかは、出撃策が採用されていたらの記事でくわしく考えています。
4. 冬の陣が長引き、徳川の損害がふくらむ
史実の冬の陣でも、徳川方は真田丸の前で大きな損害を出しました。昌幸と信繁の父子がそろえば、徳川はもっと長く大坂城の前で足止めされます。冬の寒さの中、20万ともいわれる大軍を養い続けるのは、徳川にとっても大きな負担でした。
戦が長引けば、徳川方についた大名たちの中に「豊臣と戦うのは気が進まない」という者が出てくるかもしれません。昌幸が上田で狙ったのも、大軍の足並みが乱れることでした。
5. 和睦の罠を見ぬく
史実の家康は、大筒で本丸を撃って城内をおびえさせ、和睦に持ちこみました。そして和睦のあと、外の堀だけでなく内側の堀まで埋めてしまいます。これで大坂城は、ただの裸の城になりました。
表裏比興の者と呼ばれた昌幸なら、家康の和睦の裏を読んだはずです。少なくとも「堀を埋めさせてはならない」と強く言ったでしょう。ただ、和睦を決めるのは秀頼と淀殿です。昌幸の言葉がどこまで届いたかはわかりません。
6. それでも、家康の大軍と時間には勝てない
昌幸がいても、最後に勝つのは家康だったと思います。理由は二つあります。
一つは兵の数です。大坂方は約10万といわれますが、多くは寄せ集めの浪人でした。徳川方は全国の大名を動かせます。上田城では地の利で大軍を退けた昌幸も、天下の大名すべてを相手にすることはできません。
もう一つは時間です。昌幸は68歳。戦が長引けば、昌幸自身の命が先につきるかもしれません。家康は1616年に亡くなりますが、将軍はすでに秀忠で、徳川の仕組みは家康がいなくても動きます(家康が先に亡くなっていたらどうなったかは、こちらの記事で考えています)。上田で秀忠を足止めした昌幸も、天下を動かす仕組みまでは止められなかったのです。
筆者の感想




上田城跡(長野県上田市)(筆者撮影/日本の歴史旅ガイドより)
上田城に立つと、この小さな城で徳川の大軍を二度も退けたことに驚かされます。昌幸の強さは、城の固さではなく、敵を引きつけてたたく知恵にありました。その知恵が大坂城にあったら、と考えずにはいられません。
伝承の中で昌幸は、「自分の名なら策は通る」と言いました。でも私は、昌幸が本当に悔やんだのは、策が通らないことより、その策を生かすだけの時間が自分に残されていないことだったのではないかと思います。だからこそ、無念を信繁に託した。ドラマ第1話の臨終の場面は、その思いをよく表していました。
あなたは、昌幸が大坂城にいたら、大坂の陣はどうなったと思いますか?
よくある質問
真田昌幸はいつ亡くなったの?
慶長16年(1611)6月4日、九度山で亡くなりました。65歳でした。大坂冬の陣の3年前です。
昌幸が死ぬ前に信繁に策を伝えたのは本当?
江戸時代の軍記物などに伝わる話で、史実かどうかは確かめられていません。ただ、昌幸の名の重みと、信繁の立場の弱さをよく表した話として知られています。
「表裏比興の者」とはどういう意味?
豊臣秀吉が昌幸を評したとされる言葉で、「油断のならない、くわせもの」という意味です。強い大名の間をたくみに渡り歩いた昌幸を表しています。
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