もし坂本龍馬が近江屋で死ななかったら?戊辰戦争は止められなくても、龍馬は海と蝦夷地に向かった

もし坂本龍馬が近江屋で死ななかったら

1867年11月15日の夜、京都・河原町の醤油屋「近江屋」の二階で、坂本龍馬は中岡慎太郎とともに刺客に襲われました。龍馬はその夜のうちに、中岡も2日後に亡くなります。龍馬はこの日、33歳の誕生日だったと伝わります。

そのほんの1か月前、将軍・徳川慶喜は政権を朝廷に返していました。大政奉還です。土佐藩を通じてこの道を慶喜に勧めた一人が、龍馬でした。戦わずに新しい国をつくる。その入口に立ったところで、龍馬は命を落としたのです。

では、もし龍馬が近江屋で死ななかったら? 先に私の答えを書きます。鳥羽・伏見から始まる戊辰戦争は、龍馬がいても止められなかったと思います。それでも龍馬は、新しい政府の役人にはならず、海の商売と蝦夷地の開拓に向かったはずです。

坂本龍馬
目次

通説・史実:大政奉還の1か月後に倒れた龍馬

年月 出来事
1866年1月 龍馬らの仲立ちで、薩摩と長州が手を結ぶ(薩長同盟)
1867年4月 龍馬が土佐藩のもとで「海援隊」の隊長となる
1867年6月 長崎から京へ向かう船の中で、新しい国の形を後藤象二郎に示したと伝わる(いわゆる船中八策)
1867年10月14日 慶喜が政権を朝廷に返す(大政奉還)
1867年11月 龍馬が新政府の方針をまとめた「新政府綱領八策」を書く
1867年11月15日 近江屋で中岡慎太郎とともに襲われ、亡くなる
1867年12月9日 王政復古の大号令。慶喜に官職と領地の返上が求められる
1868年1月 鳥羽・伏見の戦い。戊辰戦争が始まる

龍馬が目指したのは、徳川家も加わった「話し合いで決める政府」でした。将軍が政権を返したあと、諸大名や公家が集まる議会で国の方針を決める。その中には、徳川家も一つの大名として席をもつ、という考え方です。

一方で、薩摩の西郷隆盛や大久保利通、公家の岩倉具視は、徳川家を新しい政府から外し、力で幕府を倒すことを考えていました。大政奉還のあと、二つの道は真っ向からぶつかろうとしていたのです。

1867年末、大政奉還のあとの力関係図
1867年末、大政奉還のあとの力関係(筆者作成)
徳川慶喜
西郷隆盛
勝海舟

ですが、もし龍馬が近江屋で死ななかったら

もしあの夜、刺客が近江屋に来なかったら。あるいは龍馬が別の宿に移っていたら。龍馬は中岡とともに、新しい政府づくりのために京で走り回ったはずです。

近江屋の二階で中岡慎太郎と語る坂本龍馬
近江屋の二階で中岡と語る龍馬(イメージ)

こうなったかもしれない

1. 王政復古は止められない

12月9日の王政復古の大号令は、薩摩と岩倉具視が前から準備していたものでした。土佐藩も最後はこれに加わっています。龍馬一人が反対しても、この流れは止まらなかったでしょう。

2. 龍馬は慶喜を新政府に入れようと動く

王政復古の夜に開かれた小御所会議では、土佐の山内容堂が慶喜をかばい、岩倉らと激しく言い争いました。龍馬が生きていれば、容堂や越前の松平春嶽とともに、慶喜を新政府の一員に入れる道を探し続けたはずです。

龍馬は、薩長同盟の仲立ちをしたことで、西郷とも木戸孝允とも話ができる数少ない人物でした。慶喜と薩摩のあいだを行き来する「使者」としては、これ以上の人はいません。

3. それでも鳥羽・伏見は起きる

ところが、12月の終わりに江戸で旧幕府側が薩摩藩邸を焼き討ちすると、大坂の旧幕府軍は「薩摩を討て」と京へ向かいます。こうして1868年1月、鳥羽・伏見の戦いが始まりました。

戦う気持ちが両方に高まってしまえば、一人の仲立ちでは止められません。私は、龍馬がいても戊辰戦争は起きたと思います。

4. 龍馬は政府に入らず、海の商売へ

龍馬は、新しい政府の役職を決める案の中に、自分の名前を入れなかったと伝わります。役人になるより、海援隊で船を動かし、貿易で国を豊かにしたいと考えていたのかもしれません。

土佐藩の商売をまかされ、海援隊のお金の面も見ていたのが、のちに三菱をおこす岩崎弥太郎です。龍馬が生きていれば、日本の海運と貿易は、龍馬と岩崎の二人三脚で大きく育ったと私は思います。

長崎の港で貿易にのりだす海援隊
長崎の港で貿易にのりだす海援隊(イメージ)

5. 蝦夷地の開拓に乗りだす

龍馬は、行き場のない浪士たちを蝦夷地へ送り、開拓させるという夢をもっていました。戊辰戦争が終わったあと、龍馬はその夢に向かって動き出したでしょう。

実際の明治政府も、北海道の開拓に力を入れました。そこに龍馬の海援隊が船を出し、人と物を運ぶ。榎本武揚が箱館で思い描いた蝦夷地の開拓を、龍馬が別の形でかなえていたかもしれません。

6. 結末:内戦は防げない。けれど明治の対立はやわらいだ

龍馬が生きていても、戊辰戦争は起きたと思います。けれど明治になってから、薩摩・長州・土佐の仲がこじれる場面はたくさんありました。1873年の政変では西郷や板垣退助が政府を去り、のちの西南戦争や自由民権運動へとつながっていきます。

どの藩の人とも話ができた龍馬がいれば、こうした対立を少しでもやわらげることができたかもしれません。龍馬の本当の出番は、戦いのあと、明治の国づくりの中にあったのだと私は思います。

まとめ

  • 王政復古の大号令は、龍馬がいても止められない
  • 龍馬は慶喜を新政府に入れようと、薩摩と徳川のあいだを走り回る
  • それでも戦う気持ちが高まり、鳥羽・伏見の戦いは起きる
  • 龍馬は役人にならず、海援隊で海運と貿易を育てる
  • 蝦夷地の開拓に乗りだし、明治の藩どうしの対立をやわらげる役目を果たす

筆者の感想

龍馬というと、どうしても「日本の夜明け」を開いたヒーローとして語られがちです。でも実際の龍馬は、刀よりも船と商売を愛した人だったように思います。だからこそ、戦いが始まる前に倒れてしまったのは、なんとも惜しいことでした。

龍馬が生きていたら、明治の日本で何をしたのか。役人ではなく、船の上で、商人として、開拓者として生きる龍馬の姿のほうが、私にはずっと龍馬らしく思えます。

あなたは、龍馬が生きていたら、明治の日本で何をしたと思いますか?

よくある質問

坂本龍馬はどこで亡くなったの?

1867年11月15日、京都・河原町の近江屋の二階で、中岡慎太郎とともに襲われて亡くなりました。今の京都市中京区で、跡地には石碑が立っています。

龍馬を襲ったのは誰?

京都見廻組の佐々木只三郎らとする説が有力ですが、薩摩藩の関与を疑う説など、さまざまな説があります。

海援隊とは?

龍馬が隊長をつとめた土佐藩の組織で、船で物や人を運ぶ商売と、海軍の訓練をかねていました。のちに岩崎弥太郎の三菱にもつながっていきます。

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