もし四国攻めで秀長が長宗我部に阿波を残していたら?信親は戸次川で死なず、長宗我部は関ヶ原を生きのびた【豊臣兄弟!】

秀長が長宗我部元親に土佐と阿波を残した場合の四国の配置図(イメージ)

1585年の夏、羽柴秀吉は10万をこえる大軍を四国へ送りこみました。相手は、土佐から四国のほとんどを手に入れた長宗我部元親です。このとき病気の秀吉に代わって総大将をつとめたのが、弟の羽柴秀長でした。

元親はよく戦いましたが、大軍には勝てず、1か月ほどで降伏します。残されたのは土佐一国だけでした。では、もし秀長が元親の願いを聞き入れ、土佐に加えて阿波も残していたら?

阿波の陣で長宗我部元親と向き合う羽柴秀長(イメージ)
元親と向き合う秀長(イメージ)
目次

先に結論:信親は戸次川で死なず、長宗我部は関ヶ原を生きのびた

先に私の答えを書いておきます。阿波を残された長宗我部家は、秀長の「与力」として、秀長と深く結びついたと思います。そうなると翌年の九州攻めで、元親と跡継ぎの信親は、秀長の軍に加わったはずです。

史実で信親が命を落とした戸次川の戦いは、別の軍の大将・仙石秀久の無理な指示で起きた負け戦でした。秀長のもとにいれば、信親は死なずにすみます。跡継ぎ争いも起きず、1600年の関ヶ原では、秀長の旧臣・藤堂高虎とのつながりから東軍についた。長宗我部家は、土佐と阿波の大名として江戸時代まで続いたかもしれません。

史実:四国攻めと長宗我部家

年月 出来事
1585年春 元親が伊予の大半をおさえ、四国のほとんどを手に入れる
1585年6月 秀長を総大将に、四国攻めが始まる。秀長は淡路から阿波へ、宇喜多・黒田らは讃岐へ、小早川隆景らは伊予へ
1585年7月 秀長が阿波の一宮城を開城させる。元親が降伏し、土佐一国だけを残される
1586年12月 九州攻めの先陣として豊後へ。戸次川の戦いで跡継ぎの信親が討ち死にする
1588年 四男の盛親が跡継ぎに決まる。反対した一族の吉良親実らが切腹させられる
1600年 盛親が関ヶ原で西軍につき、戦いのあと土佐を取り上げられる
豊臣秀長のイラスト

四国攻めの前、元親は伊予を返すので土佐・阿波・讃岐は残してほしいと願い出ていました。けれど秀吉は、讃岐と伊予の両方を返せと求め、話はまとまりませんでした。戦いが終わったあと、阿波は蜂須賀家政、讃岐は仙石秀久、伊予は小早川隆景に与えられています。

秀長が長宗我部元親に土佐と阿波を残した場合の四国の配置図(イメージ)
土佐の出来人、生き残る(イメージ)

ですが、もし秀長が長宗我部に阿波を残していたら

秀長は、九州攻めでも島津との間をとりもったように、負けた相手にも筋を通す人でした。阿波の一宮城を囲んだとき、元親の使者が「土佐と阿波だけは」と願い出て、秀長がそれを兄に取りついでいたら。秀吉も、弟の顔を立てて、それを認めたかもしれません。

こうなったかもしれない

1. 長宗我部家は秀長の与力になる

土佐と阿波をあわせると、およそ40万石ほどになります。秀吉は、大きな領地を残すかわりに、長宗我部家を秀長の「与力」として、秀長の指図に従わせたでしょう。

大和の秀長と、紀伊水道をはさんだ阿波の長宗我部。海を通じて、両家はすぐに行き来できます。元親にとって秀長は、降伏した相手であると同時に、豊臣家の中での頼れる後ろだてになるのです。

2. 九州攻めでは、秀長の軍に加わる

四国攻めの大船団を率いる秀長(イメージ)
大船団を率いる秀長(イメージ)

1586年、秀吉は九州の島津を攻めることを決めました。史実では長宗我部元親・信親父子は、讃岐の仙石秀久を軍監とする先陣として、豊後へ送られます。

秀長の与力になっていれば、長宗我部家は秀長の軍とともに動いたはずです。翌年、秀長は日向から島津を攻め、根白坂の戦いで大勝しました。長宗我部の兵も、この勝ち戦に加わっていたかもしれません(「もし根白坂で島津が秀長に勝っていたら?」)。

3. 信親は戸次川で死なない

史実の戸次川の戦いは、仙石秀久が「援軍を待て」という命令を無視して川を渡り、島津の待ち伏せにあった負け戦でした。元親は命からがら逃げのびましたが、22歳の信親はここで討ち死にします。

信親は背が高く、文武にすぐれた若者で、元親がもっとも期待をかけた跡継ぎでした。秀長のもとにいれば、信親が仙石の無謀な戦いにまきこまれることはありません。

4. 跡継ぎ争いが起きず、元親は崩れない

岡豊城から土佐を見わたす長宗我部元親と信親(イメージ)
岡豊城の元親と信親(イメージ)

信親を失った元親は、人が変わったようになったといわれます。四男の盛親を跡継ぎにすると強引に決め、反対した一族の吉良親実らを切腹させました。家臣たちの心は離れ、長宗我部家は内側から弱っていきます。

信親が生きていれば、こうした悲劇は起きません。元親は1599年に亡くなりますが、跡を継ぐのは30代の信親です。家臣たちも、まとまったまま信親を支えたでしょう。

長宗我部氏の本拠・岡豊城跡(筆者撮影)

5. 関ヶ原では東軍につく

史実で関ヶ原のとき、跡を継いだばかりの盛親は、家康に味方するつもりだったのに、使者が関所で止められて連絡がとれず、そのまま西軍に加わったともいわれます。戦いのあと、長宗我部家は土佐を取り上げられ、土佐には山内一豊が入りました。

このもしもでは、当主は信親です。そして秀長の家臣だった藤堂高虎は、家康の側近として東軍の中心にいました。秀長家とのつながりを通して高虎と親しかった信親なら、迷わず東軍についたと思います。長宗我部家は土佐と阿波の大名として、江戸時代を迎えたかもしれません。

高知城(筆者撮影)。関ヶ原のあと、長宗我部に代わって土佐に入った山内一豊が築きました

※石高や日付には諸説あります。

まとめ:秀長が阿波を残していたら

史実 もしも
四国攻めのあと 土佐一国だけ 土佐と阿波を残す
豊臣家との関係 仙石秀久らの指図で動く 秀長の与力になる
九州攻め 戸次川で信親が討ち死に 秀長の軍で戦い、信親は生きる
跡継ぎ 盛親に決まり、一族を処罰 信親がそのまま継ぐ
関ヶ原 西軍につき、土佐を失う 藤堂高虎とのつながりで東軍に

筆者の感想

長宗我部元親は「土佐の出来人」と呼ばれた名将です。けれど、その晩年は、信親を失った悲しみから、家を傷つけてしまいました。たった一つの負け戦が、家の運命を変えてしまったのです。

そして、その運命の分かれ道は、四国攻めの後始末にあったのかもしれません。秀長は、負けた相手を味方に変えるのがうまい人でした。もし長宗我部家が秀長の側にいたら、元親の晩年は、ずっと穏やかなものになったのではないでしょうか。

あなたは、秀長が長宗我部に阿波を残していたら、長宗我部家はどうなっていたと思いますか?

よくある質問

四国攻めの総大将はだれ?

羽柴秀長です。秀吉自身も出陣する予定でしたが、病気のため取りやめ、弟の秀長が総大将として阿波へ渡りました。甥の秀次が副将をつとめています。

戸次川の戦いとは?

1586年12月、豊後の戸次川で、豊臣方の先陣が島津軍に大敗した戦いです。軍監の仙石秀久が無理に川を渡って攻めかかったため、長宗我部信親や十河存保が討ち死にしました。

長宗我部家はそのあとどうなったの?

関ヶ原の戦いで西軍についた盛親は、土佐を取り上げられました。盛親はのちに大坂の陣で豊臣方として戦い、戦いのあと処刑されています。

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