今夜(10月23日)から、テレビ朝日系でドラマ『真田十勇士 SHADOWS OF THE TEN NINJA』が始まります。猿飛佐助や霧隠才蔵といった忍びたちが真田幸村(信繁)のもとに集まり、大坂の陣へ向かう物語です。
ただ、真田十勇士は実在の人物ではありません。江戸時代の軍記物から生まれ、大正時代の「立川文庫」で大ブームになった、物語のヒーローたちです。
では、もし真田十勇士が本当にいて、信繁のそばで大坂の陣を戦っていたら? 先に私の答えを書きます。十勇士がいても家康は討てず、大坂城は落ちたと思います。それでも、ひとつだけ変えられたことがあります。秀頼を城から逃がすことです。

通説・史実:九度山から大坂の陣へ、信繁の最後の15年
| 年 | 出来事 |
|---|---|
| 1600年 | 第二次上田合戦で、父・昌幸とともに徳川秀忠の大軍を足止めする。関ヶ原のあと、紀伊の九度山へ流される |
| 1611年 | 父・昌幸が九度山で亡くなる |
| 1614年10月 | 豊臣方の誘いを受けて九度山を抜け出し、大坂城に入る |
| 1614年12月 | 大坂冬の陣。出城「真田丸」で前田・井伊・松平の軍勢を撃退する。その後に和睦が結ばれ、大坂城の堀が埋められる |
| 1615年5月6日 | 道明寺・誉田の戦い。霧で到着が遅れ、先に戦った後藤又兵衛が討死する |
| 1615年5月7日 | 天王寺・岡山の戦い。家康の本陣に突撃して馬印を倒させるが、力尽きて討死する |
| 1615年5月8日 | 秀頼と淀殿が自害し、豊臣家が滅びる |
十勇士の顔ぶれは、猿飛佐助、霧隠才蔵、三好清海入道、三好伊三入道、穴山小助、海野六郎、根津甚八、望月六郎、筧十蔵、由利鎌之助の10人です。名前の多くは、江戸時代の『真田三代記』などの軍記物に家来として出てきます。海野・望月・根津は、信濃の名族で真田家とも縁の深い一族の名字です。
それが明治の終わりから大正にかけて、子ども向けの講談本「立川文庫」で忍術物語として大人気になります。とくに猿飛佐助と霧隠才蔵は、ここで大きく育てられた人物です。今の「十勇士」のイメージは、このころにできあがりました。



ですが、もし真田十勇士が実在したら
もし信繁のそばに、腕ききの忍びが10人、本当にいたら。とはいえ、空を飛んだり分身したりする忍術は抜きにして考えます。現実の忍びの仕事は、敵の様子を探る、伝令として走る、陣や城にまぎれこむ、といった「情報」と「連絡」の仕事でした。
実は大坂の陣の豊臣方は、この情報と連絡でつまずいた場面がいくつもあります。十人の腕ききがいれば、どこが変わったでしょうか。まずは物語での得意わざをもとに、十人の役割を割りふってみます。
| 勇士 | 物語での得意わざ | 実在したらの役割 |
|---|---|---|
| 猿飛佐助 | 甲賀流の忍術、身軽さ | 斥候。家康本陣の位置と守りを探る |
| 霧隠才蔵 | 伊賀流の忍術、変装 | 徳川方の陣への潜入。和睦の裏を探る |
| 三好清海入道 | 怪力の荒法師 | 突撃の先頭で道を切り開く |
| 三好伊三入道 | 清海の弟、同じく怪力 | 兄とならんで突撃の先頭に立つ |
| 穴山小助 | 信繁の影武者 | 信繁の身代わりとして敵を引きつける |
| 根津甚八 | 影武者、海の男 | 影武者。最後は舟の手配 |
| 海野六郎 | 信繁の側近 | 伝令のまとめ役、城との連絡 |
| 望月六郎 | 火薬の名手 | 火を放ち、敵陣を混乱させる |
| 筧十蔵 | 鉄砲の名手 | 家康の旗本を狙い撃つ |
| 由利鎌之助 | 鎖鎌と槍の使い手 | 騎馬で信繁のそばを固める |
得意わざや設定は、作品によって少しずつちがいます。ここでは代表的なものをもとにしています。
こうなったかもしれない
1. 九度山にいるうちに、信濃の旧臣を集めておく
信繁は14年ものあいだ、九度山で暮らしました。見張りがいたとはいえ、十勇士が山を出入りして、上田の旧臣や各地の浪人とつなぎをとることはできたはずです。
そうすれば、大坂から誘いが来た時には、すでに顔なじみの精鋭がそろっています。寄せ集めの浪人ではなく、信繁の指図ひとつで動く部隊。これが十勇士のいちばん現実的な働きだったと思います。
2. 冬の陣:和睦の裏を探り、「堀を埋める」危うさを伝える
冬の陣では、真田丸の守りで徳川方に大きな損害を出しました。それでも家康は、大筒で本丸を撃って城内をおびえさせ、和睦に持ちこみます。そして和睦のあと、外の堀だけでなく内側の堀まで一気に埋めてしまいました。
十勇士が徳川方の陣にまぎれこんでいれば、「家康は堀をすべて埋めるつもりだ」という話を早くつかめたかもしれません。ただ、和睦を決めたのは淀殿や大野治長たち城の上層部です。外から来た浪人の信繁の声は、なかなか届きませんでした。情報は届いても、決める人が変わらなければ結果は同じだったでしょう。
3. 5月6日:霧の中を走る伝令が、後藤又兵衛を救う
夏の陣の5月6日、道明寺で後藤又兵衛は先に着いて徳川の大軍とぶつかり、討死しました。あとから来るはずの信繁や毛利勝永の軍は、濃い霧で到着が遅れたと伝わります。
ここは十勇士がいちばん活躍できた場面です。身軽な佐助が霧の中を走って、又兵衛に「真田はまだ着かない、待て」と伝えていれば。又兵衛は単独で突っこまず、豊臣方は戦力をまとめて戦えました。豊臣方の名将をひとり、失わずにすんだかもしれません。
4. 5月7日:秀頼出馬の使者になる
最後の決戦の日、信繁は秀頼が戦場に出てくることを願い、息子の大助を城へ帰したと伝わります。豊臣家の当主が旗を立てれば、徳川方についた豊臣恩顧の大名たちの心がゆれるからです。しかし、秀頼は城を出ませんでした。
十勇士が何度も城と戦場を往復し、「今こそ出馬を」と伝え続けたら。それでも、出馬を決めるのは秀頼と淀殿、そして側近たちです。忍びにできるのは伝えるところまで。私は、ここでも結果は変わらなかったと思います。もし秀頼が戦場に出ていたらどうなったかは、関ヶ原に秀頼が着陣していたらの記事で考えています。
5. 家康の本陣へ:あの影武者たちは十勇士だった
史実の信繁は、家康の本陣に何度も突撃しました。家康の馬印が倒れ、家康自身も逃げるほどだったと伝わります。そしてこの突撃には、信繁の影武者が何人もいたという話が残っています。戦のあと「真田を討ち取った」という者が何人も出たとも言われるほどです。

もし十勇士が実在したら、この影武者こそが十勇士です。物語でも、穴山小助や根津甚八は信繁の身代わりとなって大坂で討死します。赤い鎧の「真田」が戦場のあちこちに現れれば、徳川方はどれが本物か分からず、兵を分けるしかありません。
その間に、佐助が探っておいた本陣への道を、三好兄弟が先頭で切り開きます。筧十蔵は鉄砲で家康の旗本を狙い、望月六郎は火を放って本陣のまわりを混乱させる。由利鎌之助は本物の信繁のそばを離れません。影武者が敵を散らし、本物が一直線に家康をめざす。十勇士がいれば、刃が家康に届く可能性は、少しは上がったでしょう。
でも、徳川方は豊臣方の何倍もの大軍です。一度くずれても、まわりの軍勢がすぐに家康を守りにかけつけます。それに、もし家康を討てたとしても、将軍はすでに秀忠です。徳川の大軍はそのまま大坂城を攻め、城は落ちます。家康ひとりを討っても、徳川の天下は止まりませんでした。
6. 最後の任務:秀頼と大助を連れて、薩摩へ落ちのびる
では、十勇士がいて変えられたことは何か。私は「秀頼を逃がすこと」だと思います。大坂の陣のあと、京や大坂では次のような童歌がはやったと言われます。
花のようなる秀頼様を 鬼のようなる真田が連れて 退きも退いたり加護島(鹿児島)へ
秀頼は生きていて、真田に連れられて薩摩へ逃げた。そう信じたい人が大勢いたのです。鹿児島には、今も秀頼の墓と伝わる場所があります。

忍びの本当の得意わざは、戦うことより「抜け出すこと」です。信繁自身も、見張りのいる九度山を抜け出しています。大坂は海に面した町で、城が燃える混乱の中なら、舟で西へ逃がす道もありました。関ヶ原で西軍についた島津なら、かくまう理由もあります。
役割分担はこうです。才蔵が徳川方の兵になりすまして城の抜け道を確かめ、佐助が秀頼と大助を連れ出す。海野六郎が城の中の段取りをつけ、物語で海の男とされる根津甚八が舟を用意する。影武者の穴山小助が戦場で「真田はまだ戦っている」と見せ続けて、追っ手の目をそらす。十人がそろってはじめてできる仕事です。
ただし、徳川は秀頼の幼い息子・国松までさがし出して処刑しました。秀頼を逃がすなら、二度と表に出ず、名前を捨てて生きるしかありません。豊臣家の再興ではなく、秀頼と大助の命だけを守る。それが十勇士にできた、ぎりぎりの「もしも」だと思います。
筆者の感想
信繁の最後の戦いぶりは、敵だった島津家の側からも「日本一の兵(ひのもといちのつわもの)」とたたえられました。負けると分かっている戦で、家康の本陣にまで迫った。だからこそ人々は、信繁のまわりに十人の忍びを思い描き、「秀頼様は生きている」という物語をつくったのだと思います。
十勇士が実在しても、大坂の陣の勝ち負けは変わらない。それでも、敗れた側の命をひとつでも救えたかもしれない。私は、十勇士の物語が400年も愛されてきた理由は、そこにあるのだと思います。今夜からのドラマは史実とフィクションを織り交ぜて描くそうなので、史実と見くらべながら楽しむのもおすすめです。
あなたは、真田十勇士が実在したら、大坂の陣はどうなったと思いますか?
よくある質問
真田十勇士は実在したの?
十勇士そのものは、軍記物や講談から生まれた架空の人物たちです。ただ、海野・望月・根津などの名字は信濃の実在の一族のもので、モデルになった人物がいたと考えられている勇士もいます。
真田十勇士のメンバーは?
猿飛佐助、霧隠才蔵、三好清海入道、三好伊三入道、穴山小助、海野六郎、根津甚八、望月六郎、筧十蔵、由利鎌之助の10人です。作品によって顔ぶれや名前の字が少しちがうこともあります。
真田幸村と真田信繁は同じ人?
同じ人です。当時の手紙などで確かめられる名前は「信繁」で、「幸村」は江戸時代の軍記物などで広まった名前です。





