もし大坂冬の陣で真田幸村の出撃策が採用されていたら?勝っても大名は寝返らず、まちがいは「和睦」だった

もし大坂冬の陣で出撃策が採用されていたら

1614年の秋、大坂城には全国から10万をこえる浪人が集まりました。九度山を抜け出した真田信繁(幸村)も、その一人です。徳川の大軍を前に、豊臣方はどう戦うかを決める軍議を開きます。

このとき信繁や後藤又兵衛は、城にこもらず打って出て、京を押さえ、宇治や瀬田で徳川軍を迎え撃つべきだと説いたと伝わります。しかし、豊臣家の重臣・大野治長たちは籠城を選びました。

では、もし信繁の出撃策が採用されていたら? 先に私の答えを書きます。はじめの戦いには勝てても、豊臣家に味方する大名は一人も出てこなかったと思います。そして、籠城を選んだこと自体は、まちがいではありませんでした。豊臣家が本当にまちがえたのは、そのあとの「和睦」です。

真田信繁(幸村)

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目次

通説・史実:籠城を選び、真田丸で勝った冬の陣

年 出来事
1614年7月 方広寺の鐘の銘文が問題になる(方広寺鐘銘事件)
1614年10月 交渉役の片桐且元が大坂城を去る。家康が大名たちに出陣を命じる。信繁が九度山を抜け出し、大坂城に入る
1614年10月 豊臣方の軍議で籠城が決まる
1614年11月 徳川方およそ20万が大坂城を囲む。鴫野・今福などで戦いが起こる
1614年12月4日 真田丸の戦い。信繁が城の南の出城で、前田・井伊・松平の軍勢を撃退する
1614年12月 家康が大筒で本丸を撃ち、和睦が結ばれる。その後、外堀だけでなく内側の堀まで埋められる

出撃策の話は、『難波戦記』など江戸時代の軍記物に出てくるもので、本当に軍議でそう言ったかどうかは、はっきりしていません。ただ、豊臣方の中に「城にこもるだけでは勝てない」という声があったのは、たしかだと思います。

浪人たちの多くは、関ヶ原で敗れて家を失った武将たちです。命がけで手柄を立てたい浪人と、豊臣家を守りたい大坂城の重臣たち。この二つは、最初から考え方がちがっていました。

後藤又兵衛(基次)
大野治長
徳川家康

ですが、もし出撃策が採用されていたら

もし軍議で信繁や又兵衛の意見が通り、豊臣方が城を出て京へ向かっていたら。秀頼を旗頭にして京を押さえ、東から来る徳川軍を宇治川や瀬田川のあたりで食い止める。川を盾にして、大軍が一度に渡れない場所で戦うという作戦です。

大坂方の出撃策 京と宇治・瀬田で徳川軍を迎え撃つ構想図
大坂方の出撃策(イメージ図)

こうなったかもしれない

1. 宇治・瀬田で、徳川の先鋒をたたく

徳川方の大名たちは、まだ全員がそろっていませんでした。先に着いた軍勢から順に、川のこちら側で迎え撃てば、一つひとつの戦いでは豊臣方が勝つ場面もあったでしょう。信繁も又兵衛も、野戦の経験が豊富な武将です。

ただ、時間との勝負でした。浪人たちが大坂に集まりきり、部隊としてまとまるまでには日数がかかります。家康は10月の下旬には京の二条城に入っています。豊臣方が京へ出るころには、もう徳川方が先に待ちかまえていたかもしれません。

2. 京を押さえても、朝廷は味方しない

京を押さえれば、天皇や公家を味方につけ、「大義名分」を手に入れられる。そう考えたくなります。でも京には、徳川の京都所司代・板倉勝重がいて、朝廷とのつながりをしっかり握っていました。

それに、京の町を戦場にすれば、公家や町の人たちの反感を買います。かつて木曽義仲が京で嫌われたように、京を押さえることは、かえって豊臣家の評判を落とす危うさもありました。

3. 勝っても、豊臣恩顧の大名は動かない

出撃策のねらいは、緒戦で勝って「豊臣はまだ強い」と見せ、徳川方の大名の心をゆさぶることにありました。けれど史実では、豊臣家が呼びかけても、味方についた大名は一人もいません。福島正則は江戸に留め置かれ、ほかの大名たちも徳川の力をおそれていました。

宇治や瀬田で一度や二度勝ったくらいでは、大名たちは動きません。家を守る大名にとって、勝ち負けの見こみがはっきりするまで動かないのが、いちばん安全な選択だからです。

4. 野戦で負ければ、城に戻る兵もいない

徳川方はおよそ20万、豊臣方は10万ほど。しかも豊臣方は、寄せ集めの浪人です。広い野原で大軍とぶつかって一度でも崩れれば、浪人たちは散り散りになって、大坂城に戻ってこないかもしれません。

史実の冬の陣で豊臣方が持ちこたえられたのは、秀吉が築いた大坂城の守りがあったからです。真田丸で徳川方に大きな損害を出せたのも、城を背にしていたからこそでした。

5. 本当の分かれ道は「和睦」だった

こうして考えると、籠城を選んだ大野治長たちの判断は、そこまでまちがっていなかったと私は思います。冬の大坂で城を囲み続けるのは、徳川方にとってもつらいことでした。家康はこのとき73歳。長引けば長引くほど、時間は豊臣方に味方します。

豊臣家が本当にまちがえたのは、大筒の砲撃におびえて和睦を結び、堀を埋めることを許したことです。堀を失った大坂城は、翌年の夏の陣で、もう守れる城ではなくなっていました。

真田丸から出撃して徳川方の陣に夜討ちをかける真田勢
籠城しながら、夜討ちで徳川方を疲れさせる真田勢(イメージ)

6. 私なら「出撃は小さく、籠城は長く」

私が豊臣方なら、大軍で京へ出るのではなく、城を守りながら小さな出撃をくり返します。史実でも冬の陣では、塙団右衛門が夜討ちをかけて徳川方の陣を荒らしました。こうした夜討ちで徳川方を休ませず、寒さの中で疲れさせる。そして、どんなに大筒で撃たれても、堀を埋める和睦にだけは応じない。

そうすれば、家康は大坂城を落とせないまま年を越すことになります。それでも豊臣家が天下を取り戻すことはないでしょう。けれど、もっとよい条件で和睦を結び、大名として生き残る道は開けたかもしれません。

まとめ

  • 出撃策なら、はじめの戦いには勝てる場面もあった
  • それでも京を押さえて朝廷を味方につけることは難しい
  • 緒戦で勝っても、豊臣恩顧の大名は一人も寝返らない
  • 野戦で崩れれば、浪人の軍勢はまとまりを失う
  • 籠城は正解に近かった。まちがえたのは、堀を埋める和睦だった

筆者の感想

大坂の陣というと、どうしても信繁の出撃策が正しく、籠城を選んだ大野治長たちがまちがっていた、という見方になりがちです。でも、この「もしも」を考えてみると、城にこもった判断にも、ちゃんと理由があったことがわかります。

信繁自身も、城を出て大軍に挑んだのではなく、城の弱いところに真田丸を築いて、そこで勝ちました。いちばんの名将が、城をいちばんうまく使ったのです。豊臣家に足りなかったのは、出撃する勇気ではなく、和睦の誘いを断る我慢だったのだと思います。

あなたが大坂城の軍議にいたら、出撃と籠城、どちらを選びますか?

よくある質問

真田丸とは?

大坂冬の陣で、信繁が大坂城の南に築いた出城です。城の中でも守りが弱いとされた場所をおぎなうためのもので、1614年12月4日の戦いで徳川方に大きな損害を出しました。

大坂冬の陣の兵の数は?

徳川方はおよそ20万、豊臣方は10万ほどと言われます。豊臣方の兵の多くは、全国から集まった浪人でした。

冬の陣の和睦で何が決まったの?

豊臣方が浪人を罰しないことなどと引きかえに、大坂城の堀を埋めることが決まりました。ところが徳川方は、外堀だけでなく内側の堀まで一気に埋めてしまいます。

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