長岡の記事では、小栗忠順(小栗上野介)が新潟港を守りぬき、長岡で新政府軍を防ぎきる、と予想しました。けれど、もし新潟港が史実どおり新政府軍に奪われ、長岡が落ちていたら、どうなっていたでしょうか。
今回は、長岡の記事とは別の「もしも」です。北越戦争に敗れた小栗が、会津へ向かっていたら。補給の道を断たれた会津で、小栗は何をしたのかを予想してみます。
先に結論:勝つのではなく、雪が降るまで会津をもたせる
先に私の答えを書いておきます。新潟港を失った会津には、武器や弾薬を外国から運びこむ道がもうありません。飯能で弾がつきて負けた小栗は、長い戦いはできないと、だれよりもよくわかっていたはずです。
そこで小栗がねらうのは、勝つことではなく、時間をかせぐことです。会津は雪の深い土地で、雪が降れば大軍は動けません。母成峠、御霊櫃峠、猪苗代の守りを固め、十六橋をいつでも落とせるようにしておく。そして、東は十六橋の日橋川、西は阿賀野川を絶対防衛線として新政府軍を食い止める。そうして新政府軍の足を少しずつ止め、雪が降るまで会津を持ちこたえさせたのではないでしょうか。

前提:史実の会津戦争
まず、史実の流れを見ておきます。日付は旧暦です。
| 年月日(1868年) | できごと |
|---|---|
| 7月29日 | 新潟港が新政府軍に奪われ、長岡城もふたたび落ちる |
| 8月16日 | 傷を負った河井継之助が、会津へ向かう途中の塩沢村で亡くなる |
| 8月21日 | 母成峠の戦い。新政府軍約7千が、守りの手うすな母成峠を攻めて破る |
| 8月22日 | 猪苗代城が自ら火を放って退き、新政府軍が十六橋を渡る。戸ノ口原でも会津軍が敗れる |
| 8月23日 | 新政府軍が若松の城下に攻めこむ。白虎隊の悲劇もこの日。鶴ヶ城の籠城が始まる |
| 9月22日 | 会津藩が降伏する |
新政府軍の進んだ道は、二本松から母成峠をこえ、猪苗代、十六橋、戸ノ口原、滝沢本陣をへて、若松の城下へなだれこむというものでした。猪苗代湖の北をまわり、湖から流れ出る日橋川を十六橋で渡ったのです。
この流れで目を引くのは、その速さです。母成峠が破られてから、わずか2日で新政府軍は若松の城下に入っています。会津藩は、新政府軍は中山峠から来ると考えて、そちらに兵を集めていました。手うすな母成峠をつかれ、そのまま一気に城下まで攻めこまれてしまったのです。
新政府軍がこれほど急いだのには、わけがありました。土佐の板垣退助や薩摩の伊地知正治は、「雪が降る前に会津を落とさなければならない」と考えていたのです。雪が降れば、大軍は動けなくなります。会津にとっては、雪こそが最大の味方でした。
小栗、会津へ(1868年8月はじめ)
7月29日、新潟港が奪われ、長岡城もふたたび落ちました。新潟からの弾薬がとだえた小栗の隊は、もう越後では戦えません。小栗は、傷ついた河井継之助や長岡藩の兵とともに、八十里越の険しい山道をこえて、会津をめざします。
会津に着いた小栗が、まず確かめたのは弾薬の数だったと思います。新潟港を失った以上、外国から新しい銃や弾を手に入れる道はありません。手もとにある弾を、どう使い、どれだけ長くもたせるか。飯能で弾がつきる苦しさを味わった小栗にとって、それが会津での戦いのすべてでした。
小栗の見立て:雪が降るまで、もたせればよい
小栗は、会津藩の重臣たちにこう説いたのではないでしょうか。
「補給がない以上、長い戦はできぬ。だが、雪が降れば敵は攻められぬ。雪まで持ちこたえれば、会津は冬を越せる」
会津の盆地には、旧暦の10月ごろから雪が降りはじめます。新暦でいえば11月から12月です。母成峠の戦いがあった8月21日から数えると、あと2か月ほど。その2か月をかせげるかどうかが、会津の運命を分けます。
史実の会津は、母成峠から城下まで、わずか2日で攻めこまれました。小栗の考えは、この2日を、10日、20日と引きのばすことです。そのために、峠と橋と城に、何重にも守りを重ねていきます。
第1の守り:母成峠と御霊櫃峠を固める
小栗が最初に手をつけるのは、二本松の側から会津へ入る峠の守りです。会津へ入る道はいくつもありますが、とくに大事なのは、中山峠、御霊櫃峠、そして母成峠でした。
史実の会津藩は、中山峠に兵を集め、母成峠は手うすでした。けれど小栗は、地図を見て、新政府軍は守りの弱いところをついてくると考えたはずです。そこで、母成峠と御霊櫃峠の守りを、急いで固めさせます。
| 場所 | 小栗の手当て(予想) |
|---|---|
| 母成峠 | 台場(大砲の陣地)を三段に重ね、土塁と柵を強くする。大鳥圭介の伝習隊と、小栗の隊が守る |
| 御霊櫃峠 | 台場を築き、会津藩兵が守る。母成が破られたときに、横から敵を打てるようにする |
| 中山峠 | 史実どおり兵を置くが、一部を母成へ回せるようにしておく |
| 猪苗代城 | 峠のうしろの守りとして兵糧と弾薬をたくわえ、すぐには捨てない |
母成峠には、史実でも台場が三段に築かれていました。ただ、急ごしらえで、守る兵も約800人と少なかったのです。小栗は、飯能の笹井河原で待ちぶせを成功させたように、峠の地形を生かし、敵が登ってくる道を大砲と銃でねらえる陣地に作りかえたのではないでしょうか。

小栗、陣地づくりの陣頭に立つ
小栗は、峠の陣地づくりに、みずから陣頭に立ちます。史実の母成峠では、守りの兵が少ないうえに、いくつもの藩や隊が入りまじり、まとまって戦うことができませんでした。陸軍奉行をつとめた小栗が峠を見て回り、台場の位置や兵の配置を一つ一つ決めていけば、ばらばらの兵も一つになって戦えたはずです。
そして戦いが始まると、小栗は猪苗代の本営に戻ります。峠の守りは大鳥圭介たちにまかせ、自分は全体を見わたして、次の手を打てるようにしておくのです。

第2の守り:十六橋をいつでも落とせるようにする
母成峠をこえると、猪苗代湖の北に出ます。そこから若松の城下へ向かうには、猪苗代湖から流れ出す日橋川を渡らなければなりません。その川にかかっていたのが、十六橋です。
十六橋は、大きな石を組んで造られた、がんじょうな石の橋でした。史実では、母成峠が破られたあと、会津藩はこの橋を壊して敵を止めようとしました。けれど、石の橋はかんたんには壊れず、作業に手間どっているあいだに新政府軍が駆けつけ、橋を渡られてしまったと伝えられています。
小栗は、この橋の大切さを、前もって見ぬいていたはずです。そこで、いざというときすぐに落とせるよう、準備をおこたりません。
- 橋のたもとに大砲をすえ、石の橋げたをねらえるようにしておく
- 橋の下に火薬をしかけ、合図ひとつで爆破できるようにしておく
- 橋の西側、若松寄りの戸ノ口原に陣地を築き、橋を落としたあとも川岸を守れるようにする

人の手でたたき壊すのではなく、大砲の弾で石をくだく。洋式の大砲を知る小栗ならではの考え方です。新政府軍が母成峠をこえてきたら、味方の兵がすべて渡り終えたところで、十六橋を砲撃で落とすのです。
絶対防衛線:東は十六橋の日橋川、西は阿賀野川
小栗が会津の重臣たちに示したのは、ここだけは何があっても破らせない、という二本の線だったと思います。
| 方面 | 絶対防衛線 | ねらい |
|---|---|---|
| 東(二本松・猪苗代の側) | 十六橋の日橋川 | 峠は時間かせぎ。最後は十六橋を落とし、日橋川で食い止める |
| 西(越後の側) | 阿賀野川 | 越後から攻めてくる新政府軍を、阿賀野川の線で食い止める |
西の阿賀野川については、史実でも会津藩はよく守りました。越後から会津へ攻めこもうとした新政府軍は、阿賀野川の流れにそった会津藩の守りにはばまれ、なかなか進むことができませんでした。会津藩が降伏するまで、西からの新政府軍は、阿賀野川の線をこえて若松まで攻めこむことはできなかったのです。
ということは、東の十六橋さえ守りきれれば、会津は西と東の両方で新政府軍を食い止めることになります。史実で会津が敗れたのは、東の守りが母成峠から十六橋まで一気に破られたからでした。小栗が東の線を固めることには、それだけの意味があったのです。

西は山川大蔵に、東は小栗が
二つの線を、だれが守るのか。小栗は、西の阿賀野川を、会津藩の若き家老・山川大蔵(のちの山川浩)にまかせたのではないでしょうか。山川は、史実でも日光口で新政府軍を相手に巧みな戦いを見せ、のちに鶴ヶ城の籠城では、獅子舞を先頭に囲みをくぐって城に入ったという逸話で知られる、知恵と胆力をそなえた将です。

そして小栗自身は、いちばん危ない東を受け持ちます。母成峠から十六橋、猪苗代から戸ノ口原まで。新政府軍の主力がやってくる東の線を、小栗がみずから守るのです。
北はどうでしょうか。会津の北には、同盟の大藩・米沢藩がいます。米沢藩が同盟にとどまっているかぎり、北から新政府軍が会津へ入ってくることはありません。史実の米沢藩は9月4日に降伏しましたが、会津が東と西でしっかり持ちこたえていれば、米沢藩も降伏を急がず、北の守りとして残ったのではないでしょうか。
予想:日橋川で新政府軍を食い止める
では、新政府軍が攻めてきたら、どうなるでしょうか。
8月21日、新政府軍は史実どおり母成峠に攻めかかります。峠には三段の台場が固められ、大鳥圭介の伝習隊が守っています。御霊櫃峠からは会津藩兵が横から攻めかかり、新政府軍の足をにぶらせます。それでも新政府軍は大軍です。峠は、やがて破られてしまったかもしれません。
猪苗代の本営にいた小栗のもとに、「母成峠、破らる」の知らせがとどきます。小栗は、すぐに十六橋へ馬を走らせます。峠から退いてくる味方の兵を橋の向こうへ渡らせ、最後の兵が渡り終えたのを見とどけると、前々からの打ち合わせどおり、橋のたもとにすえた大砲に号令をかけます。大砲の弾が石の橋げたをくだき、しかけておいた火薬に火が入る。十六橋は、新政府軍が駆けつける前に、日橋川の流れに沈みます。

史実では、橋を壊すのに手間どっているあいだに、新政府軍に渡られてしまいました。けれど、前もって大砲と火薬を用意し、だれがいつ合図を出すかまで決めておけば、橋はすぐに落とせます。準備をおこたらなかったことが、ここで生きるのです。
橋を失った新政府軍は、日橋川の手前で足止めされます。大軍を渡すには、新しく橋をかけるか、舟を集めなければなりません。
日橋川で、新政府軍を食い止める
川の向こう岸には、小栗が前もって築かせておいた陣地が待っています。ここに集まるのは、上州の権田村から小栗に従ってきた農兵や家臣たちの私兵、そして会津藩が神官たちを集めて組んだ隊などです。飯能、越後と小栗とともに戦ってきた農兵たちは、元込め銃の扱いにも慣れています。そこへ、ふるさとの会津を守ろうとする神官たちの隊が加わります。
新政府軍が舟で渡ろうとすれば、川岸の陣地から一斉に銃が撃ちかけられます。橋をかけなおそうとすれば、その作業の兵がねらい撃ちにされます。数の少ない会津方でも、川をはさめば、大軍と互角にわたり合えるのです。小栗の農兵と私兵、会津の兵たちは、日橋川の線で新政府軍を食い止めたのではないでしょうか。
小栗の防衛線には、行き場を失った兵たちも駆けつけます。7月に城を落とされた二本松藩の残兵たち。そして、水戸藩の内紛に敗れて国を追われ、会津に身を寄せていた諸生党の市川三左衛門たち。ふるさとを失った兵たちにとって、日橋川の線は、もう一度戦える最後の場所でした。史実でも、二本松の残兵や水戸の諸生党は会津方として戦っています。小栗のもとに集まった寄せ集めの兵たちが、一つの川を守るために肩を並べたのです。
同盟の援軍が、米沢口から入ってくる
日橋川でにらみ合いが続くうちに、新政府軍の側には、二本松や白河から次々に援軍が集まってきます。けれど、会津の側にも援軍がやってきます。北の米沢口から、奥羽越列藩同盟の藩の兵が会津へ入ってくるのです。
| 藩 | 動き(予想) |
|---|---|
| 米沢藩 | 同盟の大藩として、いちばん多くの兵を送る。北の守りもかねる |
| 庄内藩 | 精強な兵を送るが、北の秋田藩との戦いが激しくなり、途中で引き上げる |
| 上山藩 | 米沢の北どなりの小藩。米沢藩とともに兵を出す |
| 天童藩 | 出羽の小藩。同盟の一員として兵を出す |
庄内藩は、史実でも新政府方についた秋田藩と激しく戦い、秋田の領内深くまで攻めこんでいました。会津へ兵を回しても、北の戦いが苦しくなれば、引き上げざるをえなかったでしょう。それでも、米沢や上山、天童の兵が加われば、日橋川の守りは厚くなります。会津は、ひとりで戦っているのではない。援軍の旗が見えることは、会津の兵たちの心の支えにもなったのではないでしょうか。

西では、阿賀野川の線が史実どおり越後からの新政府軍を止めています。東の日橋川、西の阿賀野川。二つの川で、会津は新政府軍を食い止めたことになります。
伝習隊が、新政府軍のうしろをつく
そして、この戦いの決め手になるのが、母成峠で敗れた大鳥圭介の伝習隊です。史実の伝習隊は、母成峠で敗れたあと、山の中へちりぢりに退いていきました。けれど、小栗の打ち合わせでは、伝習隊は十六橋を渡らず、峠から退いたあとも山あいの決めておいた場所に陣を張り、兵をまとめなおすことになっていました。
日橋川の手前で足止めされた新政府軍は、前の川と、対岸の陣地ばかりを見ています。そこへ、うしろの山から伝習隊が攻めかかります。前からは日橋川をはさんで小栗の兵が撃ちかけ、うしろからは伝習隊がおそいかかる。はさみうちにされた新政府軍は、たまらず母成峠の方へ退いていったのではないでしょうか。

こうして、東の新政府軍は撃退されます。史実では、母成峠が破られてからわずか2日で城下に攻めこまれ、鶴ヶ城の籠城が始まりました。けれど、ここでは新政府軍は日橋川をこえることさえできず、若松の城下は戦火をまぬがれます。白虎隊の少年たちの悲劇も、城下の家族たちの悲劇も、起きなかったかもしれません。
陣地をさらに固め、無事に冬をむかえる
東の新政府軍を押し返したあとも、小栗は気をゆるめません。新政府軍は、二本松や白河からまた兵を集めて、ふたたび攻めてくるはずだからです。
そこで小栗は、そのあいだにも陣地をますます強くしていきます。日橋川の岸には土塁と柵を重ね、大砲の台場を増やす。母成峠や御霊櫃峠も取りもどして、ふたたび台場を築きなおす。西では山川大蔵が阿賀野川の守りを固め、北には米沢藩がいます。会津は、東・西・北の守りを固めたまま、秋をこえていきます。
やがて、旧暦の10月。会津に雪が降りはじめます。雪が積もれば、新政府軍は兵糧や弾薬を運ぶのも難しくなります。遠く九州や四国から来た兵たちにとって、会津の冬はとても厳しいものでした。新政府軍は、春まで攻めを止めざるをえません。会津は、城下に一度も敵を入れることなく、無事に冬をむかえたのではないでしょうか。

その後:春までの延命と、降伏の条件
ただし、ここで正直に書いておかなければならないことがあります。新潟港を失った会津には、補給の道がありません。冬を越せたとしても、春になれば、ふたたび新政府の大軍がやってきます。会津だけで勝ちきることは、やはりできなかったと思います。
それでも、冬を越したことには大きな意味がありました。会津を雪が降るまでに落とせなかったことで、新政府は「力ずくでは時間がかかる」と思い知らされます。その間に、箱館の榎本武揚たちや、各国の公使たちの目もあります。新政府も、会津との話し合いに応じざるをえなかったのではないでしょうか。
そしてもう一つ、会津が東と西で新政府軍を食い止めているあいだに、まわりの情勢も動きます。史実では、会津が落ちるのと前後して、仙台藩や庄内藩も次々に降伏しました。会津が持ちこたえていれば、仙台や庄内も降伏を急がず、奥羽越列藩同盟がもう一度息をふき返したかもしれません。一時的にでも東西で食い止められれば、戦いの流れは、まったくちがう方向へ向かっていた可能性もあるのです。
史実の会津藩は、降伏したあと、藩主の松平容保は謹慎、会津の地は取り上げられ、藩士たちは下北半島の斗南へ移されて、きびしい暮らしを強いられました。もし会津が冬を越し、春に話し合いで降伏していたら、もう少しよい条件を引き出せたかもしれません。
まとめ:勝てない戦いで、時間を味方につける
飯能では、弾がつきて負けました。長岡の記事では、港を守って勝ちました。そして今回の会津では、港を失い、勝てないとわかっている戦いです。それでも小栗は、峠を固め、橋を落とす準備をし、雪という味方が来るまで時間をかせごうとした。
お金と物の流れを見てきた小栗は、勝てないときにどう負けるか、どうすれば少しでもよい形で戦いを終えられるかも、考えられる人だったのではないでしょうか。






