もし蒲生氏郷が40歳で死ななかったら?会津に「東の壁」が残り、家康は関東から動けなかった

もし蒲生氏郷が長生きしていたら

1590年、小田原の北条氏を滅ぼした豊臣秀吉は、奥州の仕置きを終えると、会津に一人の武将を置きました。蒲生氏郷です。信長の娘を妻にむかえ、信長にも秀吉にも才能を認められた名将でした。

氏郷にあたえられた役目は、東北の伊達政宗と、関東の徳川家康をおさえることでした。会津は、その二人のあいだに打ちこまれたくさびだったのです。ところが1595年、氏郷は40歳の若さで京都の伏見で亡くなってしまいます。

では、もし氏郷が40歳で死ななかったら? 先に私の答えを書きます。関ヶ原のころも会津に氏郷がいれば、家康は関東から簡単には動けなかったと思います。会津に「東の壁」が残ることで、天下分け目の戦いの形は大きく変わっていたはずです。

蒲生氏郷
目次

通説・史実:会津92万石の主は、40歳で世を去った

年 出来事
1556年 近江の日野に生まれる。のちに人質として信長のもとへ行き、信長の娘・冬姫と結婚する
1584年 伊勢の松ヶ島12万石の大名になる(のちの松坂)
1590年 小田原攻めのあと、会津42万石をあたえられる
1591年 九戸政実の乱をしずめ、加増されておよそ92万石の大大名となる
1592〜93年 黒川の町を「若松」と改め、七層の天守をもつ城(のちの鶴ヶ城)を築く
1595年 京都の伏見で病のため亡くなる。40歳。子の秀行が跡を継ぐ
1598年 蒲生家は家中の争いを理由に宇都宮18万石へ移され、会津には上杉景勝が120万石で入る
1600年 家康が会津の上杉景勝を討つために出陣し、そのすきに石田三成が挙兵。関ヶ原の戦いへ

氏郷は、戦に強いだけでなく、町づくりにもすぐれた武将でした。松坂でも会津若松でも、商人を集めて城下町を栄えさせています。茶の湯では千利休の高弟「利休七哲」の一人に数えられ、キリスト教の洗礼も受けていました。

秀吉は氏郷の才能を高く評価する一方で、その大きさを警戒していたとも言われます。氏郷が会津に置かれたのは、遠ざけるためでもあった、という見方もあるほどです。

1590年代の会津・蒲生氏郷のまわりの関係図
1590年代の会津・蒲生氏郷のまわり(筆者作成)

ですが、もし氏郷が40歳で死ななかったら

もし氏郷が病に打ち勝ち、1610年ごろまで生きていたら。秀吉が亡くなる1598年にも、関ヶ原の1600年にも、会津には92万石の氏郷が座っていることになります。

こうなったかもしれない

1. 会津は蒲生のまま、上杉は越後に残る

史実で上杉景勝が会津に移ったのは、氏郷の死後に蒲生家がもめて宇都宮へ移されたからでした。氏郷が生きていれば、蒲生家が騒動を起こすことも、会津を明けわたすこともありません。上杉は越後にとどまります。

会津若松の城を築く蒲生氏郷
若松の城を築く氏郷(イメージ)

2. 伊達政宗は会津をのぞけない

氏郷と政宗は、会津に来たばかりのころから仲が悪く、1590年の一揆では、政宗が裏で一揆をあおっているのではないかと氏郷が疑ったこともありました。

氏郷が会津にいる限り、政宗は南の会津や関東に手を伸ばせません。政宗が「百万石のお墨付き」をもらって領地を広げようとした史実の動きも、氏郷ににらまれていては難しかったでしょう。

会津の蒲生氏郷と、にらみ合う伊達政宗
にらみ合う氏郷と政宗(イメージ)

3. 家康は「会津征伐」の口実をつくれない

関ヶ原の戦いは、家康が会津の上杉を討とうと出陣したところから始まりました。上杉が城を直し、兵を集めているのは謀反のしるしだ、というのが家康の言い分です。

もし会津にいるのが氏郷なら、家康は同じ口実を使えたでしょうか。氏郷は秀吉に会津をまかされた大名で、豊臣家への忠義も厚い人物です。家康が理由なく攻めれば、ほかの大名たちの目が冷たくなります。

4. 家康は関東から動けない

それでも家康が三成と戦うために西へ向かったとします。そのとき、会津の氏郷が南へ兵を出したらどうなるか。江戸は空っぽです。

史実でも、上杉が西へ向かう家康を追いかけていたら、と考える人は多くいます。私は上杉軍が徳川軍を追撃していたらの記事で、家康が江戸に縛られた形を考えました。氏郷なら、上杉よりもためらわずに動いたかもしれません。

5. 氏郷はどちらにつくか

ただ、氏郷がかならず家康の敵になるとは限りません。氏郷は利家とも家康とも付き合いがあり、損得を見きわめられる武将でした。私は、氏郷は最初から家康につくことはせず、豊臣家を守る側に立ちながら、家康と三成の両方に「自分を無視しては天下は決まらない」と思わせる立ち回りをしたと思います。

6. 結末:家康の天下取りは遅れ、蒲生家は大大名として残る

会津に氏郷という「東の壁」がある限り、家康は関東を空けて大きな戦をすることができません。関ヶ原のような一日で決まる大戦は起きにくく、家康の天下取りは何年も遅れたでしょう。

そのかわり、蒲生家は会津92万石の大大名として残ります。史実の蒲生家は、氏郷の死後に転封と減封をくり返し、1634年に跡継ぎがなく断絶しました。氏郷が長く生きることは、蒲生家にとっても、豊臣家にとっても、大きな意味があったと私は思います。

まとめ

  • 会津は蒲生のまま。上杉は越後に残る
  • 伊達政宗は氏郷ににらまれ、会津や関東に手を出せない
  • 家康は「会津征伐」の口実をつくりにくい
  • 西へ出れば、会津の氏郷が江戸を突ける
  • 関ヶ原のような大戦は起きにくく、家康の天下取りは遅れる

筆者の感想

鶴ヶ城の天守
鶴ヶ城の走長屋と天守
鶴ヶ城の天守台の石垣
鶴ヶ城天守からの眺め

鶴ヶ城(福島県会津若松市・筆者撮影)

会津若松の鶴ヶ城は、戊辰戦争の籠城戦で有名ですが、もとをたどれば氏郷が築いた城です。「若松」という町の名も、氏郷が故郷・日野の「若松の森」にちなんでつけたと伝わります。天守にのぼって会津盆地を見わたすと、ここから伊達と家康の両方をにらんでいた氏郷の姿が浮かんでくるようです。

氏郷が亡くなったとき、辞世の句には「限りあれば 吹かねど花は散るものを」とあったと伝わります。花は風が吹かなくても、いつかは散る。40歳で散った氏郷の花が、もう少し長く咲いていたら。会津の歴史も、日本の歴史も、きっと違うものになっていたと思います。

あなたは、氏郷が長生きしていたら、関ヶ原は起きたと思いますか?

よくある質問

蒲生氏郷はどんな武将?

近江の日野出身の武将で、信長の娘を妻にむかえました。秀吉のもとで伊勢の松坂、さらに会津92万石の大名となり、町づくりや茶の湯にもすぐれていました。

鶴ヶ城は誰が築いたの?

今の鶴ヶ城(会津若松城)の天守は、1593年ごろに蒲生氏郷が七層の天守として築いたのが始まりです。のちに加藤明成が五層に改めました。

氏郷の死後、蒲生家はどうなったの?

子の秀行が継ぎましたが、家中の争いを理由に1598年に宇都宮18万石へ移されました。関ヶ原のあと会津60万石に戻されたものの、1634年に跡継ぎがなく断絶しました。

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