1868年閏4月6日、上野国の烏川の河原で、ひとりの幕臣が斬首されました。小栗忠順、42歳。2027年の大河ドラマ『逆賊の幕臣』の主人公です。新政府軍への反乱を疑われ、取り調べらしい取り調べもないままの処刑でした。
小栗は、幕府の勘定奉行として財政を立て直し、横須賀に製鉄所(のちの造船所)を建てた人物です。明治になってから、大隈重信が「明治政府の近代化は、小栗の考えをまねたものにすぎない」と語ったとも伝わります。
では、もし小栗が斬首されず、明治政府に仕えていたら? 先に私の答えを書きます。小栗は大臣にはならなくても、大蔵省や工部省で、日本の近代化の設計図を描く人になったと思います。明治の国づくりは、少なくとも何年かは早く進んだはずです。

⚓ 小栗忠順と戊辰戦争の「もしも」シリーズ(全7本)
通説・史実:近代化の種をまき、実りを見ずに散った
| 年 | 出来事 |
|---|---|
| 1827年 | 江戸の旗本の家に生まれる |
| 1860年 | 日米修好通商条約の批准のため、遣米使節の目付としてアメリカへ渡る |
| 1865年 | フランスの協力で、横須賀に製鉄所を建てることを決める |
| 1867年 | 日本で最初の株式会社とも言われる「兵庫商社」の設立にかかわる |
| 1868年1月 | 鳥羽・伏見の戦いのあと、徹底抗戦を説くが、慶喜に役を外される |
| 1868年閏4月6日 | 上野国の権田村で新政府軍にとらえられ、烏川の河原で斬首される |
| 1871年 | 横須賀で最初のドックが完成する(のちの横須賀海軍工廠) |
小栗が横須賀の製鉄所を建てようとしたとき、幕府はもう長くないと言う人もいました。そのとき小栗は「たとえ幕府がなくなっても、土蔵つきの売り家として残せれば名誉だ」という意味のことを語ったと伝わります。
その言葉どおり、横須賀の造船所は明治政府に引きつがれ、日本の海軍を支える工場になりました。日露戦争の日本海海戦で勝った東郷平八郎が、のちに小栗の子孫を招き、横須賀造船所のおかげだと礼を述べたという話も残っています。

ですが、もし小栗が明治政府に仕えていたら
もし小栗が権田村でとらえられず、あるいは命だけは助けられていたら。旧幕府の幕臣でも、勝海舟や榎本武揚のように、のちに明治政府で重い役につく人はたくさんいました。小栗も、数年の謹慎のあと、新しい政府に呼ばれたと考えてみます。
こうなったかもしれない
1. 命を救う人がいたか
箱館で最後まで戦った榎本武揚は、新政府軍の黒田清隆が命ごいをしたことで助けられ、のちに開拓使や外交官として活躍しました。小栗にも、その才能を惜しむ人は新政府の中にいたはずです。
ただ、小栗は「戦えば勝てる」と主戦論を説いた人物として、新政府に強く警戒されていました。命が助かるには、勝海舟のような旧幕府側の人間と、新政府の有力者の両方が動く必要があったでしょう。
2. 大蔵省で、お金の仕組みを整える
明治のはじめ、政府はお金の仕組みづくりに苦労しました。藩ごとにばらばらだったお金をまとめ、税の取り方を変え、銀行をつくる。小栗は勘定奉行として、まさにこうした仕事をしてきた人でした。
同じ幕臣出身で、明治のはじめに大蔵省で働いた渋沢栄一とならべば、日本の経済の土台づくりは、もっと早く、もっと手ぎわよく進んだかもしれません。

3. 横須賀を、自分の手で育てる
小栗がいちばん見たかったのは、横須賀で日本人の手によって軍艦がつくられる姿だったはずです。明治政府に仕えていれば、小栗は横須賀造船所をみずから率い、フランス人技師から日本人の職工へと技術を受けつがせたでしょう。

4. 株式会社と貿易を広げる
小栗は、外国の商人に負けないためには、日本の商人もお金を出し合って大きな会社をつくるべきだと考えていました。兵庫商社は幕府の終わりとともに消えましたが、明治政府の中で小栗がこの考えを進めていれば、三井や三菱とならぶ大きな商社が、もっと早く生まれていたかもしれません。
5. それでも、薩長の政府の中で
ただし、明治政府の中心は薩摩と長州の人たちでした。旧幕臣の小栗が、大臣のような高い地位につくのは難しかったでしょう。勝海舟も榎本武揚も、政府の中ではいつも「元幕臣」として見られていました。
それでも小栗は、表に立つ人ではなく、仕組みを考え、図面を引く人として力を発揮したと思います。
6. 結末:明治の国づくりが、何年か早まる
私は、小栗が生きていれば、明治の近代化は何年か早く進んだと思います。お金の仕組み、造船、会社づくり。どれも小栗が幕府でやろうとして、途中で終わってしまったことばかりです。
大隈重信の言葉が本当だとすれば、明治政府は小栗の設計図をあとからなぞったことになります。設計図を描いた本人がそこにいれば、回り道をせずにすんだ。それが、この「もしも」のいちばん大きな違いだと私は考えます。
まとめ
- 命が助かるには、勝海舟と新政府の有力者の両方が動く必要があった
- 大蔵省で、渋沢栄一とともにお金の仕組みを整える
- 横須賀造船所をみずから率い、日本人の手で軍艦をつくる
- 兵庫商社の考えを広げ、大きな会社づくりを進める
- 大臣にはならなくても、近代化の設計図を描く人として、明治の国づくりを早める
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筆者の感想


東善寺の小栗公遺品館(群馬県高崎市倉渕町・筆者撮影)
東善寺の遺品館には、小栗が最期に乗ったと伝わる駕籠や、愛用した望遠鏡が残されています。アメリカに渡り、海の向こうの国の大きさを自分の目で見てきた人が、最後は小さな駕籠に乗せられて河原へ向かった。その姿を思うと、胸が痛みます。
小栗は「逆賊」として殺されましたが、その仕事は明治の日本にしっかり受けつがれました。来年の大河ドラマで、小栗が描いた日本の未来がどのように語られるのか。生きていたら何をしたのかを想像しながら見ると、きっともっと楽しめると思います。
あなたは、小栗が明治政府に仕えていたら、どんな仕事をしたと思いますか?
よくある質問
小栗忠順は何をした人?
幕末の幕臣で、勘定奉行や外国奉行などをつとめました。遣米使節としてアメリカに渡り、帰国後は横須賀製鉄所の建設、幕府の財政や陸軍の改革に取り組みました。
横須賀製鉄所とは?
1865年に小栗がフランスの協力で建設を決めた、船をつくり修理するための工場です。明治政府に引きつがれて横須賀造船所となり、のちに横須賀海軍工廠になりました。
小栗忠順のお墓はどこにあるの?
群馬県高崎市倉渕町の東善寺にあります。東京・豊島区の雑司ヶ谷霊園にも小栗家の墓があります。
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