もし秀吉が朝鮮出兵をやめていたら?内政で豊臣政権を固め、一族で殺し合わない天下

名護屋の陣で出兵の取りやめを告げる英雄・秀吉(イメージ)

1592年、秀吉は朝鮮へ大軍を送りました。秀吉が亡くなるまで7年近く続いたこの戦いは、大名と領民を疲れさせ、豊臣政権の土台をゆらしたといわれます。もし秀吉が出兵をやめ、その力を国内に向けていたら。そして跡継ぎをめぐって、一族どうしが殺し合わずにすんでいたら。私が秀吉なら、こう手を打つという「もしも」を考えます。

目次

通説:朝鮮出兵が豊臣政権を弱らせた

よく言われるのは、朝鮮出兵が豊臣政権の寿命を縮めたという見方です。大名たちは兵と兵糧と船を出し続けて疲れ切り、戦い方をめぐって加藤清正ら武断派と、石田三成ら奉行衆の対立も深まりました。一方の家康は海を渡らずに力をたくわえ、秀吉の死後に天下を手に入れたという筋書きです。

史実:鶴松の死から朝鮮出兵、秀次事件へ

年 出来事
1590年(天正18年) 小田原征伐。家康が関東へ移される(約250万石)
1591年(天正19年) 1月に弟・秀長、8月に鶴松が亡くなる。肥前で名護屋城の普請が始まる
1591年12月 甥の秀次が秀吉の養子となり、関白に就く
1592年4月(文禄元年) 朝鮮へ出兵(文禄の役)
1593年8月(文禄2年) 秀頼が生まれる。秀吉は日本を五つに分けて四つを秀次に、一つを秀頼に、と語ったと伝わる
1594年(文禄3年) 伏見城の普請を諸大名に命じる
1595年7月(文禄4年) 秀次が高野山で切腹。妻子も処刑される
1597年(慶長2年) ふたたび朝鮮へ出兵(慶長の役)
1598年8月(慶長3年) 秀吉が亡くなり、その年のうちに兵を引き上げる

鶴松を失った1591年から、豊臣家は海の外での戦と、跡継ぎ問題を同時にかかえることになりました。家康は名護屋まで出陣したものの、海は渡っていません。西国の大名が海の向こうで兵を減らすあいだ、関東の家康は力を保ち続けたのです。

詳しい史実は、姉妹サイトの加藤清正・福島正則と石田三成はなぜ仲が悪かったのかや、豊臣秀頼の人物紹介で解説しています。

もし秀吉が朝鮮出兵をやめていたら

では、秀吉が名護屋で出兵を取りやめたとします。集めた兵も船も兵糧も、すべて国内に戻す。私が秀吉なら、その力を外ではなく内に向けて、豊臣政権そのものを盤石にします。

こうなったかもしれない

1. 出兵はやめて、内政に力を入れる

出兵をやめ、内政に力を入れた豊臣の世の城下町(イメージ)
出兵をやめていたら、兵は故郷に帰り、城下町と田畑はにぎわっていたかもしれない(イメージ)

検地や刀狩で形ができた国の仕組みを、さらに整えることに力を使います。海の向こうへ送るはずだった兵糧は国内にたくわえ、船は国内の物流に回す。戦で稼ぐのではなく、国を豊かにすることで政権を強くします。

2. 大名家をむやみにつぶさない

改易を取りやめる秀吉と、頭を下げる大名たち(イメージ)
取りつぶしを覚悟した大名に、秀吉は改易を取りやめる(イメージ)

大名家をつぶしても、浪人がふえるだけです。江戸時代のはじめ、徳川は多くの大名家を改易しました。その結果あふれた浪人の多くが大坂の陣で豊臣方に集まり、のちには由井正雪の慶安の変のような騒ぎも起こります。浪人を出さないことは、それだけで世の中を安定させます。

3. 城づくりの「普請手伝い」はさせない。豊臣の城は豊臣でつくる

史実の秀吉は、大坂城や伏見城、名護屋城などの普請を大名に手伝わせました。徳川も江戸城や名古屋城などで同じことをして、大名の力を削っています。私が秀吉なら、豊臣の城は豊臣の手でつくります。大名を疲れさせることは、その下の領民を疲れさせることだからです。

4. ただし、徳川は強くしない

大名を大事にするといっても、徳川だけは別です。出兵をやめれば、西国の大名だけが疲れて家康が無傷で残るという差はまずなくなります。そのうえで、大名どうしが勝手に縁組をしない決まりを早くから出し、関東のまわりの大名もつぶさずに置いて、家康がまわりを味方に引きこめないようにします。とはいえ、露骨に徳川を押さえつけることはできません。かえって家康に口実を与えてしまうからです。それでも、まわりに包囲網をつくって、じわじわと心理的に追いつめることはできたかもしれません。

5. 五大老に秀長を。秀長の死後は秀保を

史実の五大老には、徳川・前田・毛利・宇喜多・上杉のほか、亡くなるまでは小早川隆景も数えられていました。私が秀吉なら、この大老の席に弟の秀長を入れます。秀長は早くに亡くなるので、その跡は養子の秀保に継がせます。大老の中に豊臣の一門が座っていれば、家康の発言だけが重くなることはありません。

6. 早くから秀次を跡継ぎにすえる

鶴松が亡くなったら、迷わず甥の秀次を跡継ぎにすえます。ここまでは史実と同じです。ちがうのは、そのあとも秀次を跡継ぎとして扱い続け、政務の経験を積ませていくことです。

7. 秀頼が生まれたら、秀次と話し合って関白をゆずってもらう

幼い秀頼に頭を下げ、関白の位をゆずる秀次(イメージ)
秀頼に関白をゆずり、後見役として支える秀次(イメージ)

秀頼が生まれたら、まず秀次の意向をきちんと聞きます。そのうえで、関白の位を秀頼にゆずってもらい、秀次には後見役として秀頼を支えてもらいます。秀次は、追い出される跡継ぎではなく、豊臣家を支えるいちばんの大人の一族になります。史実でも秀吉は、秀頼と秀次の娘を結婚させる話をしていたと伝わります。それをそのまま実現させればよいのです。

8. 無理なら遠くへ領地替え。それでも一族で殺し合いはしない

もし秀次が納得しなければ、遠くの領地へ移ってもらいます。たとえば肥後や筑前の福岡、豊前の小倉といった九州の大きな領地です。都からは離れても、豊臣一門の大名として西国ににらみをきかせる役目を任せます。それでも、命まではとりません。史実の秀次事件では、秀次だけでなく妻や子どもたちまで処刑され、秀次と親しかった大名にも疑いがかかりました。豊臣家は、秀頼を支えるはずの大人の一族を、自分の手で失ったのです。一族どうしの殺し合いは、家康を喜ばせるだけです。

結末:家康がつけいるすきのない豊臣家

1598年に私が亡くなるとき、秀頼はまだ6歳です。それでも、後ろには関白をゆずった秀次が後見として控え、大老の席には秀長の跡を継いだ秀保が座っています。大名たちは海を渡っておらず、城の普請にもかり出されていないので、力も気持ちも豊臣から離れていません。出兵がなければ、武断派と奉行衆の対立もここまで深まらなかったはずです。

家康はつけいるすきを探しても、見つけられません。一族で殺し合わず、大名を疲れさせなかった豊臣家は、秀頼の代になっても天下を保ち続けたと私は思います。

まとめ

  • 朝鮮出兵をやめ、兵と船と兵糧を国内に戻して内政に力を入れる
  • 大名家をむやみにつぶさず、浪人を出さない
  • 城の普請手伝いはさせず、豊臣の城は豊臣でつくる
  • 徳川だけは強くしない。五大老には秀長、その死後は秀保を入れる
  • 秀次を早くから跡継ぎにし、秀頼が生まれたら話し合って関白をゆずってもらう。無理でも殺さず、遠くへ領地替え

大名を疲れさせることは、領民を疲れさせること。一族で殺し合うことは、家康を喜ばせること。秀吉がこの二つを避けていれば、豊臣の天下はずっと長く続いたのではないでしょうか。

筆者の感想

この「もしも」を考えていて、いちばん強く思ったのは、大名を疲れさせることは領民を疲れさせることだということです。海の向こうへの出兵も、城づくりの手伝いも、そのツケは最後には大名の領地で暮らす人たちにまわります。

大名家をつぶすのも同じです。家をつぶしても浪人がふえるだけで、世の中が落ち着くわけではありません。そして何より、一族で殺し合いはしない。秀次を殺したところで、喜ぶのは家康だけです。秀次と話し合って関白をゆずってもらい、それが無理でも遠くへ移ってもらう。それだけで、豊臣家の未来はまったくちがうものになったと思います。

あなたが秀吉だったら、朝鮮出兵をやめて、どんな国づくりをしますか?

よくある質問

朝鮮出兵は何回あったの?

2回です。1592年の文禄の役と、1597年の慶長の役です。秀吉が1598年に亡くなり、兵は引き上げました。

どれくらいの兵が海を渡ったの?

文禄の役では、およそ16万の兵が朝鮮へ渡ったとされます。そのほとんどは西国の大名の兵でした。

名護屋城とはどんな城?

肥前(今の佐賀県唐津市)に築かれた、朝鮮出兵の本陣です。まわりには全国の大名の陣屋が並び、一時は大坂に次ぐ大きな町になりました。

大河『豊臣兄弟!』IF特集
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