ドラマ『真田十勇士 SHADOWS OF THE TEN NINJA』の第3話で、幸村(信繁)たちはいよいよ九度山を抜け出し、大坂城をめざします。その大坂城で、信繁が最後の決戦をともに戦うはずだった相手が、後藤又兵衛(基次)でした。
大坂夏の陣の5月6日、二人は道明寺でそろって徳川を迎え撃つ手はずでした。ところが又兵衛だけが先に着き、徳川の大軍とぶつかって討死します。信繁が着いたのは、そのあとでした。
では、もし又兵衛と信繁が予定どおり道明寺でそろっていたら? 先に私の答えを書きます。道明寺では徳川の先手を食い止め、又兵衛を失わずにすみました。5月7日の決戦では、信繁の突撃に又兵衛の兵が加わり、家康を討つ見こみは史実よりずっと高くなったと思います。それでも、大坂城と豊臣家を救うことはできませんでした。

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通説・史実:道明寺でそろわなかった5月6日
| 日付 | 出来事 |
|---|---|
| 1615年4月 | 徳川方が再び大坂へ向かう。冬の陣の和睦で堀を埋められた大坂城では籠城できず、豊臣方は城の外で迎え撃つことにする |
| 5月5日 | 平野に集まった後藤又兵衛・真田信繁・毛利勝永らが、夜のうちに道明寺へ進み、大和から国分の狭い道を抜けてくる徳川方を迎え撃つ手はずを決めたと伝わる |
| 5月6日未明 | 又兵衛が先に道明寺に着くが、徳川方はすでに国分を越えていた。又兵衛は石川を渡って小松山(玉手山)に登り、戦いを始める |
| 5月6日昼ごろ | 又兵衛が討死し、薄田兼相も討死する。濃い霧で遅れた真田・毛利が着き、信繁は誉田のあたりで伊達政宗の軍とぶつかる |
| 5月6日 | 同じ日、北の八尾・若江では木村重成が討死し、長宗我部盛親も兵を引く |
| 5月6日夕方 | 信繁がしんがりをつとめ、大坂方は城へ引き上げる |
| 5月7日 | 天王寺・岡山の戦い。信繁は家康の本陣に迫るが、討死する |
| 5月8日 | 秀頼と淀殿が自害し、豊臣家が滅びる |
道明寺に攻め寄せた徳川方は、水野勝成・本多忠政・松平忠明・伊達政宗らの3万をこえる大軍でした。又兵衛が率いた兵は約2800。小松山の上で朝から昼近くまで持ちこたえましたが、援軍が来ないまま鉄砲に撃たれ、討死したと伝わります。
信繁や毛利勝永が遅れたのは、濃い霧のためだったといわれます。ほかにも、大坂方の作戦が徳川方にもれていたという話や、逆に又兵衛が早く出すぎたという見方もあります。どれが本当の理由かははっきりしませんが、大坂方が別々に着いて、別々に戦ってしまったことは確かです。



ですが、もし又兵衛と信繁が道明寺でそろっていたら
もし霧が出ず、又兵衛・信繁・毛利勝永が夜明け前に道明寺でそろっていたら。道明寺のあたりに集まる大坂方は、合わせて1万8千ほどになります。
徳川方は、大和から国分の狭い山あいの道を抜けて、河内の平野へ出てこなければなりません。大坂方は、その出口で待ち受ける形になります。大軍の強みが生きにくい場所で、そろった大坂方がどこまで戦えたのかを考えます。
こうなったかもしれない
1. 国分の出口で、徳川の先手をたたく
又兵衛が小松山を押さえ、信繁と勝永が石川の西側に構える。狭い道を抜けて出てくる徳川方は、一度に大軍を広げることができません。出てきた先手から順に、上と横からたたかれることになります。
これは、信繁が父の昌幸とともに上田城で徳川の大軍を退けた戦い方と同じです。大軍を正面で受け止めるのではなく、動きにくい場所に引きこんでたたく。道明寺は、その戦い方がいちばん生きる場所でした。

2. 又兵衛は生きのびる
又兵衛は、黒田家の重臣として朝鮮出兵や関ヶ原で名を上げた歴戦の将です。主君の黒田長政と対立して浪人となり、大坂城に入りました。大坂方の浪人の中でも、信繁と並んで、もっとも戦の経験が豊かな一人でした。
信繁と勝永がそろっていれば、又兵衛が小松山で孤立することはありません。疲れた兵を入れかえながら戦えば、援軍のないまま討死することもなかったでしょう。大坂方は、大事な将を一人失わずにすみます。
3. それでも、徳川の大軍は止まらない
ただし、道明寺で勝っても、それで戦が終わるわけではありません。道明寺に来たのは徳川方の一部で、その後ろには家康と秀忠が率いる本隊がひかえていました。徳川方は全体で15万ともいわれます。
しかも同じ日、北の八尾・若江では、木村重成が討死し、長宗我部盛親も兵を引いています。道明寺だけで勝っても、横から別の徳川方が大坂城へ近づいてきます。又兵衛たちも、その日のうちに城へ引き上げるしかなかったと思います。
4. 5月7日、天王寺口が厚くなる
それでも、5月6日に又兵衛と薄田兼相の兵を失わなければ、翌日の決戦はちがったものになります。史実の5月7日、信繁は茶臼山に、勝永は天王寺の前に陣を構えました。ここに又兵衛の兵が加われば、天王寺口の大坂方はぐっと厚くなります。
又兵衛と信繁は、ともに城の外で戦うべきだと考えていた将です。前の日に道明寺で力を合わせて戦えていれば、二人の息もそろっていたでしょう。
5. 家康の首に、いちばん近づく
史実の信繁は、家康の本陣に何度も突撃しました。家康の馬印が倒れ、家康自身も本陣から逃げるほどだったと伝わります。あと一押しで、家康に手が届くところまで来ていたのです。
そこに又兵衛の兵が横から加われば、本陣を守る旗本たちは、二方向から攻められることになります。私は、家康を討つ見こみは、史実よりずっと高かったと思います。ただ、5月7日の大坂方は、予定より早く鉄砲の撃ち合いが始まってしまい、作戦どおりに動けなかったとも伝わります。又兵衛がいても、あの日の混乱をすべて防げたとは限りません。
6. 討てたとしても、豊臣は救えない
では、もし家康を討てていたら豊臣家は助かったのか。私は、助からなかったと思います。将軍はすでに秀忠で、徳川方の大軍はそのまま大坂城へ攻め寄せます。堀のない大坂城は、その日のうちに落ちたでしょう。
家康を討ったあとどうなったかは、もし真田幸村が家康を討ち取っていたら?の記事でくわしく考えています。又兵衛と信繁がそろえば、家康の首には近づけた。でも、豊臣家を救うには、もっと前に別の手を打つ必要があったのです。
まとめ
- 5月6日、又兵衛と信繁は道明寺でそろって戦う手はずだったが、霧などで信繁が遅れ、又兵衛は討死した
- そろっていれば、国分の出口で徳川の先手をたたき、又兵衛を失わずにすんだ
- それでも徳川の本隊は止まらず、同じ日に八尾・若江でも負けていたため、城へ引くしかなかった
- 5月7日の天王寺口は又兵衛の兵で厚くなり、家康を討つ見こみは史実よりずっと高くなった
- 家康を討てても、堀のない大坂城は落ち、豊臣家は救えなかった
筆者の感想




安居神社(大阪市天王寺区)(筆者撮影/日本の歴史旅ガイドより)
天王寺の安居神社には、戦い疲れて座りこむ姿の信繁の像が立っています。5月7日、家康の本陣に何度も突撃した信繁は、最後にこのあたりで力尽きたと伝わります。像の前に立つと、もし前の日に又兵衛がそばにいたら、と考えずにはいられません。
又兵衛と信繁は、生まれも育ちもちがいますが、どちらも負けると分かっている戦に、自分の意地をかけて大坂城に入った武将でした。二人がそろって戦う姿を、一度でいいから見てみたかった。道明寺の霧は、大坂方にとって本当に重い霧だったと思います。
あなたは、又兵衛と信繁がそろっていたら、家康を討てたと思いますか?
よくある質問
道明寺の戦いとは?
大坂夏の陣の慶長20年(1615)5月6日、河内の道明寺(今の大阪府藤井寺市)のあたりで、大坂方と徳川方がぶつかった戦いです。後藤又兵衛や薄田兼相が討死しました。
後藤又兵衛とはどんな人?
黒田家の重臣として活躍した武将です。主君の黒田長政と対立して浪人となり、大坂の陣では豊臣方の主力の一人として戦いました。
信繁が道明寺に遅れたのは霧のせい?
濃い霧で遅れたと伝わりますが、作戦が徳川方にもれていた、又兵衛が早く出すぎたなど、ほかの見方もあります。はっきりした理由は分かっていません。








