豊臣家の親族というと、秀長や秀次が思い浮かびます。でも、もうひとつ大事な一族がいました。ねねの実家、木下家です。ところがこの木下家、ふたを開けてみるとみんな小大名ばかり。いちばん大きくなった秀秋は、「小早川」という別の家に出されてしまいました。
では、もし秀秋がよその家に行かず、木下家として自分の家を構えていたら? 先に私の答えを書いておきます。そうすべきだったとは思います。けれど、秀秋くらいの力では、大坂の陣の結末は変わらなかった。私はそう考えています。
実際の歴史:木下一族と秀秋



秀秋はもともと秀吉の養子で、一時は豊臣家の後継ぎ候補でもありました。ところが秀頼が生まれると、毛利家の小早川隆景の養子に出されます。そして1600年の関ヶ原で家康につき、戦いの勝敗を決めました。そのわずか2年後に、21歳の若さで亡くなっています。

一方、小大名のままだった木下家は、足守藩と日出藩として明治まで続きました。
明治まで残った二つの木下家
ねねの兄・木下家定の子どもたちのうち、二つの家が大名として明治まで続きました。備中の足守藩と、豊後の日出藩です。どちらも2万〜3万石ほどの小さな藩ですが、豊臣の親族で江戸時代を最後まで生き抜いた、数少ない家でした。
| 藩 | はじまり | 石高 | 本拠 | その後 |
|---|---|---|---|---|
| 足守藩(備中) | 家定の次男・木下利房 | 約2万5千石 | 足守陣屋(岡山市北区) | 一度改易されるが大坂の陣で復帰し、明治まで |
| 日出藩(豊後) | 家定の三男・木下延俊 | 約3万石 | 日出城(大分県日出町) | 関ヶ原の翌年に入り、明治まで |
足守藩:一度つぶれて、よみがえった家
家定は関ヶ原の戦いでどちらにもつかず、京都でねねを守っていました。戦いのあと、家康から備中足守に2万5千石を与えられます。
ところが家定が亡くなると、家督をめぐってもめごとが起きます。家康は、長男の勝俊と次男の利房で領地を分けるよう命じましたが、勝俊がひとりじめしたため、二人とも領地を取り上げられてしまいました。
長男の勝俊は、関ヶ原の前に守りを任された伏見城を捨てて去ったことでも知られます。武将としては失格でしたが、のちに「木下長嘯子」と名のる歌人となり、京都の東山で歌を詠んで暮らしました。武ではなく歌で名を残した、少し変わった豊臣の親族です。
一方の利房は、大坂の陣で徳川方として戦い、その働きで1615年に足守藩主に返り咲きます。豊臣の親族が、豊臣を攻める側に立って家を取り戻したわけです。複雑な気持ちになりますが、これも小大名が生き残るための現実でした。
足守からは、幕末に大切な人物が出ています。大坂に適塾を開き、福沢諭吉らを育てた蘭方医・緒方洪庵です。洪庵は足守藩士の子として生まれました。ねねの実家が治めた小さな藩から、近代日本を支える人材が育ったと思うと、少しうれしくなります。
日出藩:細川との縁で生き残った家
三男の延俊は、関ヶ原の戦いで東軍につきました。妻が細川忠興の妹だったこともあり、細川家と行動をともにしたのです。その功で、1601年に豊後日出に3万石を与えられました。
延俊は、義兄の細川忠興の助けを借りて、海に面した日出城を築きます。城の下の海でとれるカレイは「城下かれい」と呼ばれ、今も日出町の名物です。
日出藩には、ひとつ有名な言い伝えがあります。大坂の陣で亡くなったはずの秀頼の子・国松がひそかに生きのび、延俊にかくまわれて、のちに日出藩の分家・立石領の木下延由になったという話です。確かな証拠はありませんが、豊臣の血がねねの実家に守られて続いたという伝説は、木下家ならではだと思います。
二つの木下家を見ていると、豊臣の親族は「大きくならなかったからこそ生き残った」とも言えます。秀秋のように大きな家を継いだ者は早くに絶え、小大名のまま目立たずにいた家が明治まで続いた。この対比が、この記事の「もし」を考えるうえで大事なところです。
私の考え:秀秋は「木下家」を構えるべきだった

秀秋を、わざわざ別の家に行かせる必要はありませんでした。木下家として自分の家を構えさせればよかったのに、と私は思います。
豊臣家には、昔から仕える家臣団がほとんどいません。だからこそ、ねねの実家を「豊臣のもうひとつの柱」に育てておく価値は大きかったはずです。その当主にふさわしいのは、秀吉の養子だった秀秋でした。
ただし「40〜50万石」が上限
とはいえ、秀秋の力は微妙でした。それは秀吉自身もよくわかっていたはずです。だから与えるなら、せいぜい40〜50万石。ある程度の力は持たせつつ、任せすぎない。そのくらいがちょうどよいと私は思います。
面白いのは、史実で秀秋に約50万石を与えたのが、秀吉ではなく家康だったことです。関ヶ原のごほうびとして。秀吉が身内として与えなかったものを、敵が与えたわけです。
置く場所も悩ましいところです。力が微妙なだけに大きなことは言えませんが、私なら近江か、思い切って宇都宮あたりに置きます。近江なら京都と大坂のすぐそばで、豊臣の目が届きます。宇都宮なら、関東の家康の背中をにらむ形になります。
それでも大坂の陣は変わらない

では、木下家が40〜50万石の大名だったら、豊臣家は助かったのか。私の答えは「変わらない」です。
当主が秀秋では、たかがしれています。家康から見れば「その程度」で、大坂の陣の流れをひっくり返す力にはなりません。
これが立花宗茂や伊達政宗なみに優秀な人物だったら、話はまったく別です。でも、そういう人材が木下家にも豊臣家にもいなかったことこそが、豊臣家の本当の弱さだったのだと思います。
まとめ

もし秀秋が木下家の大名として家を構えていたら。
- ねねの一族は、小大名ばかりではなく「豊臣のもうひとつの柱」になれた
- ただし秀秋の力を考えると、40〜50万石が上限
- 大坂の陣の結末は変わらない。変えられるのは立花宗茂や伊達政宗のような器の人物だけ
親族を大きくするだけでは足りない。大きくするにふさわしい人材を育てられなかったことが、豊臣家の限界だったのではないでしょうか。
あなたは、秀秋が木下家を構えていたら、豊臣家の運命は変わったと思いますか?
よくある質問
小早川秀秋はもともと誰の子?
ねねの兄・木下家定の五男です。幼いころに秀吉の養子となり、のちに小早川隆景の養子となって小早川家を継ぎました。
秀秋の領地はどれくらいだったの?
筑前名島で30万石余りの大名でした。関ヶ原のあとは、備前・美作の岡山で約51万石を与えられています。
秀秋はいつ亡くなったの?
関ヶ原の2年後、1602年に21歳で亡くなりました。跡継ぎがなく、小早川家は断絶しています。






