もし秀長が北条氏政や利休の誘いに乗り、兄・秀吉を倒すために動いていたら?勝てたのか、豊臣家はどうなったか【豊臣兄弟!】

豊臣秀長(イメージ)

『豊臣兄弟!』第45回「天下人の暴走」では、秀吉の暴走が目立ちはじめるなか、秀長が北条氏政や千利休から「秀吉を倒そう」と持ちかけられる場面があるようです。秀長は最後には家族の絆に気づき、兄を支える道を選ぶとされています。

※秀長が秀吉打倒を持ちかけられたという話は、ドラマの描き方です。史実でそのような誘いがあったという記録はありません。この記事では、もし秀長がその誘いに乗っていたら、と仮定して考えます。

では、もし秀長が誘いに乗り、兄・秀吉を倒すために動いていたら。秀長は勝てたのでしょうか。そして豊臣家はどうなっていたのでしょうか。今回はその「もしも」を考えます。

北条氏政
ドラマで秀長に秀吉打倒を持ちかける北条氏政(イメージ)
目次

先に結論:秀長は勝てない。勝ったとしても、得をするのは家康だった

先に私の答えを書いておきます。秀長が兄に兵を向けても、勝つ見込みはほとんどありませんでした。秀吉のもとには全国の大名がそろい、秀長の味方になれるのは、関東の北条くらいだったからです。しかも秀長は、このころすでに病におかされていました。

そして、もし奇跡的に秀吉を倒せたとしても、豊臣家はまっぷたつに割れます。そのすきを一番うまく使えるのは、徳川家康です。秀長が誘いを断ったのは、情だけでなく、冷静な計算からみても正しい判断だったと思います。

史実:秀吉の「暴走」が始まったころ(1587〜1590年)

年 出来事
1587年(天正15年) 九州平定。バテレン追放令。北野大茶湯
1588年 佐々成政に切腹を命じる。刀狩令。聚楽第に後陽成天皇を迎える
1589年 茶々が鶴松を産む。聚楽第の門に秀吉を批判する落書が書かれ、番の者らが処罰される
1589年末〜 秀長が病に伏せる。名胡桃城事件をきっかけに北条攻めが決まる
1590年 小田原攻め。秀長は病で出陣できず
1591年1月 秀長が郡山城で病死。2月には千利休が切腹

この時期の秀吉は、天下人として力を強める一方で、佐々成政の切腹や落書事件の処罰など、きびしい決定が続きました。「内々の儀は宗易(利休)に、公儀のことは宰相(秀長)に」という言葉が伝わるように、秀長と利休は、そんな秀吉を内と外から支える二人でした。

秀長と秀吉、兵力をくらべる

秀長と秀吉、どちらにつくかの関係図
もし秀長が兵をあげても、全国の大名は秀吉につく。家康は様子見(関係図)
くらべるもの 秀長の側 秀吉の側
本拠 大和郡山城 大坂城・聚楽第
領地 大和・紀伊・和泉など。100万石ともいわれる 全国の直轄地と、従う大名すべて
味方になりそうな人 北条氏政(関東)。利休は茶人で兵はない 家康・毛利・上杉・前田・宇喜多など
弱み 秀長自身の病。北条とは遠く、連携がむずかしい 秀吉の暴走への不満

数字だけ見ても、勝負になりません。郡山は大坂のすぐ東にあり、兵をあげればすぐに囲まれます。北条が箱根を出て上方まで攻めのぼるには、家康の領地を通らなければなりません。北条と秀長は、手を組んでも助け合うことができないのです。

大坂・郡山・徳川領・北条の位置関係(イメージ図)
郡山は大坂のすぐとなり。北条とのあいだには家康の五か国がある(イメージ図)
堺の茶室の千利休
秀長とともに秀吉を支えた千利休。茶人で、自分の兵は持たない(イメージ)

もしも:秀長が兄を倒すために動いていたら

第1段階:家康を味方にできるか(1589年)

秀長が勝つ道があるとすれば、家康を味方にすることだけです。秀長は、家康が上洛したとき自分の屋敷でもてなした人物で、家康との縁は豊臣家のなかでいちばん深いと言えます。

けれど家康は、まず動かないでしょう。秀吉の妹・あさひを正室に迎え、秀吉に臣従したばかりです。しかも、豊臣家が兄弟で争えば、自分は待っているだけで得をする立場になります。家康は「お二人の仲直りを」と言いながら、どちらにも兵を出さないと思います。

秀長の屋敷で家康と秀吉が対面する
秀長の屋敷での家康と秀吉の対面。秀長と家康の縁は深い(イメージ)

第2段階:郡山で兵をあげる

家康が動かないまま、秀長が郡山で兵をあげたとします。秀長の家臣団には、藤堂高虎、桑山重晴、横浜一庵らがいます。けれど、彼らの多くはもともと秀吉の命で秀長につけられた者たちです。主君の兄、天下人に弓を引くことに、迷う者も多かったはずです。

秀吉は、ためらうことなく大軍で郡山を囲むでしょう。秀長の病もあり、戦いは長く続かないと思います。

大和郡山城の追手門と追手向櫓
秀長の居城だった大和郡山城(追手門と追手向櫓・復元)

第3段階:もし秀吉が倒れていたら

それでも、もし何かの偶然で秀吉が倒れていたら。秀長が天下人になれたとしても、豊臣家はまっぷたつに割れています。秀吉に恩を受けた加藤清正や福島正則、石田三成らは、秀長を「主君殺し」と見るでしょう。秀長の病も重くなっていきます。

このすきに、家康は「豊臣家の争いをしずめる」という名目で上方に出てくるはずです。秀長が亡くなれば、跡継ぎの秀保はまだ十代はじめ。天下は、史実より10年早く家康の手に入ったかもしれません。

秀長が誘いを断った理由

ドラマの秀長は、家族の絆に気づいて兄を支える道を選びます。史実の秀長も、最後まで兄を支え続けました。その理由を、情と計算の両方から整理してみます。

理由 中身
勝てない 兵力の差が大きく、北条とは連携できない
家康が得をする 兄弟が争えば、家康が漁夫の利を得る
病 秀長自身の体が、長い戦いにたえられない
家族 母・なか、姉・とも、妹・あさひ。豊臣家は兄弟と家族でつくった家

まとめ:秀長が秀吉打倒に動いていたら

問い 答え(予想)
秀長は勝てたか 勝てない。全国の大名が秀吉につき、北条とは連携できない
家康は どちらにもつかず、豊臣家が割れるのを待つ
もし秀吉を倒せたら 豊臣家は分裂し、天下は史実より早く家康へ
秀長の判断 誘いを断り兄を支えたのは、情でも計算でも正しかった

筆者の感想

ドラマで秀長が「兄を倒そう」と持ちかけられる展開には驚きましたが、考えてみると、秀長ほど秀吉を止められる立場の人はいませんでした。それでも兄に兵を向けなかったのは、勝てないからだけでなく、豊臣家が兄弟の家だったからだと思います。

秀長が亡くなったあと、秀吉を止められる人は本当にいなくなりました。利休の切腹、朝鮮出兵、秀次事件。秀長が兄を倒すのではなく、兄のそばで長く生きていてくれたら、それが豊臣家にとっていちばんの「もしも」だったのかもしれません。あなたが秀長だったら、誘いに乗りますか?

よくある質問

史実で秀長が秀吉打倒を誘われたことはあるの?

そのような記録はありません。ドラマ『豊臣兄弟!』の描き方です。史実の秀長は、最後まで兄の秀吉を支えました。

「内々の儀は宗易に、公儀のことは宰相に」とは?

秀長が九州の大友宗麟に語ったと伝わる言葉です。秀吉への内々の相談は利休(宗易)に、表向きの政治のことは秀長(宰相)に、という意味で、二人が秀吉を支える要だったことを示しています。

秀長はいつ亡くなったの?

1591年(天正19年)1月22日、大和郡山城で病死しました。小田原攻めのころにはすでに病が重く、出陣できませんでした。

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