『豊臣兄弟!』は小田原攻めと秀長の死で幕を閉じますが、秀吉の物語はその先も続きます。秀長が亡くなった翌年の1592年、秀吉は朝鮮への出兵を始めました。そして秀吉自身も、肥前の名護屋から海を渡り、朝鮮で全軍を指揮するつもりでした。
けれど秀吉の渡海は延期され、結局、秀吉が朝鮮の土を踏むことはありませんでした。もし秀吉が予定どおり自ら海を渡っていたら、朝鮮出兵と豊臣政権はどうなっていたのでしょうか。今回はその「もしも」を考えます。

👑 豊臣政権と一門の「もしも」シリーズ(全14本)
先に結論:戦には勝てない。秀吉が海の向こうにいるあいだ、得をするのは家康
先に私の答えを書いておきます。秀吉が海を渡っても、朝鮮出兵に勝つことはできなかったと思います。日本軍を苦しめたのは、明の大軍、朝鮮の義兵、そして海で補給路を断った李舜臣の水軍でした。秀吉がいても、海の補給の弱さは変わりません。
そして、秀吉が海の向こうにいるあいだ、日本の留守をあずかるのは関白の秀次と、名護屋に残る家康や前田利家です。もし秀吉が朝鮮で病に倒れたり、船が沈んだりすれば、日本でいちばん自由に動けるのは家康でした。秀吉の渡海は、豊臣政権にとって大きすぎる賭けだったのです。
史実:秀吉の渡海はなぜ止まったのか(1592年)
| 月 | 出来事 |
|---|---|
| 3〜4月 | 秀吉が京を出発し、4月に名護屋城に入る。先鋒の小西行長らが釜山に上陸 |
| 5月 | 日本軍が漢城(いまのソウル)を落とす。秀吉は渡海の準備を命じる |
| 5月 | 秀吉が、天皇を北京に移し、秀次を中国の関白にするという壮大な計画を示す |
| 6月 | 後陽成天皇が渡海を思いとどまるよう求め、家康や前田利家もいさめる。渡海は延期に |
| 6月 | 日本軍が平壌に入る。一方で李舜臣の水軍に日本の水軍が敗れる |
| 7月 | 母・なかが重い病に。秀吉は名護屋を離れて京へ向かうが、母の死に目に会えなかった |
秀吉の渡海を止めたのは、天皇の願いと、家康・利家ら重臣のいさめでした。海が荒れる季節であることや、秀吉の身にもしものことがあれば天下が乱れることを、みな心配したのです。そこへ母・なかの病が重なり、渡海の話は立ち消えになりました。

秀吉の「壮大な計画」
漢城が落ちたという知らせに、秀吉は大きな計画を立てました。後陽成天皇を北京に移し、秀次を中国の関白にする。日本の関白には、羽柴秀保か宇喜多秀家をあてる。秀吉自身は寧波に住んで、さらにインドまで目指す。
いまから見ると現実ばなれした計画ですが、秀吉が本気で海を渡るつもりだったことは、この計画からもわかります。

もしも:秀吉が自ら海を渡っていたら
第1段階:漢城に入る(1592年夏)
秀吉が渡海すれば、前線の大名たちの士気は大いに上がったでしょう。秀吉は漢城に入り、小西行長や加藤清正らを直接指揮します。大名どうしの手柄争いや、命令の行きちがいも、秀吉の目の前では起きにくくなります。
第2段階:補給が続かない
けれど、問題は海でした。李舜臣の水軍が日本の船を沈め、兵糧や弾薬を運ぶ道が細くなっていきます。秀吉が漢城にいれば、秀吉の分の食料や護衛も運ばなければなりません。冬が近づくと、日本軍は寒さと飢えに苦しみます。

第3段階:母の死に目にも会えない
史実では、秀吉は名護屋から京へ急ぎましたが、母の死に目に会えませんでした。漢城にいれば、知らせが届くだけで何週間もかかります。秀吉は異国の地で母の死を知ることになり、大きな打撃を受けたでしょう。
第4段階:明の大軍と、秀吉の身の危険(1593年)
1593年1月、明の大軍が平壌を取りもどし、日本軍は南へ下がりました。秀吉が漢城にいれば、明軍は秀吉そのものをねらってきたかもしれません。秀吉が討たれる、病に倒れる、帰りの船が沈む。どれか一つでも起きれば、豊臣政権はたちまちゆらぎます。

その先:秀吉が朝鮮で倒れていたら
秀吉が朝鮮で亡くなれば、跡を継ぐのは関白の秀次です。秀頼はまだ生まれていません。秀次事件も起きず、豊臣家は秀次のもとでまとまる道もありました。
ただ、朝鮮には十数万の大名の軍勢が取り残されています。その引きあげをまとめ、国内をおさえられるのは、名護屋に残っていた家康と利家くらいです。家康の発言力は、史実よりずっと早く大きくなっていたと思います。
まとめ:秀吉が自ら海を渡っていたら
| 問い | 答え(予想) |
|---|---|
| 朝鮮出兵は | 勝てない。海の補給と明の大軍に苦しむ |
| 前線は | 秀吉の指揮で士気は上がり、大名の争いはへる |
| 秀吉の身は | 海難・戦死・病の危険が大きい |
| 日本の留守は | 秀次と家康・利家。秀吉が倒れれば家康の力が強まる |
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筆者の感想
名護屋城跡に立つと、晴れた日には玄界灘の向こうに壱岐の島が見えます。秀吉はここから海の向こうを見て、何を思っていたのでしょうか。天下を統一したあとも止まれなかった秀吉の姿には、どこか悲しさも感じます。
秀長が生きていれば、兄の渡海はもちろん、出兵そのものを止められたかもしれません。秀長を失った秀吉は、だれにも止められないまま海の向こうへ突き進んでいきました。あなたは、秀吉が海を渡っていたら、どうなったと思いますか?
よくある質問
秀吉は朝鮮に渡ったことがあるの?
ありません。1592年に渡海するつもりでしたが、後陽成天皇や家康・前田利家らにいさめられて延期し、その後も渡ることはありませんでした。
名護屋城はどこにあるの?
いまの佐賀県唐津市にあります。朝鮮出兵の拠点として築かれ、まわりには全国の大名の陣屋が置かれました。いまは名護屋城跡として整備されています。
秀吉の「中国の関白」計画とは?
1592年5月、漢城が落ちたあとに秀吉が示した計画で、後陽成天皇を北京に移し、秀次を中国の関白にするというものです。実現することはありませんでした。

















