もし秀吉が自ら朝鮮へ渡海していたら?戦には勝てず、海の向こうの秀吉に代わって家康が力をのばした【豊臣兄弟!その後】

海を渡る船団

『豊臣兄弟!』は小田原攻めと秀長の死で幕を閉じますが、秀吉の物語はその先も続きます。秀長が亡くなった翌年の1592年、秀吉は朝鮮への出兵を始めました。そして秀吉自身も、肥前の名護屋から海を渡り、朝鮮で全軍を指揮するつもりでした。

けれど秀吉の渡海は延期され、結局、秀吉が朝鮮の土を踏むことはありませんでした。もし秀吉が予定どおり自ら海を渡っていたら、朝鮮出兵と豊臣政権はどうなっていたのでしょうか。今回はその「もしも」を考えます。

名護屋城の陣
秀吉は肥前の名護屋に城を築き、ここから朝鮮へ渡るつもりだった(イメージ)
目次

先に結論:戦には勝てない。秀吉が海の向こうにいるあいだ、得をするのは家康

先に私の答えを書いておきます。秀吉が海を渡っても、朝鮮出兵に勝つことはできなかったと思います。日本軍を苦しめたのは、明の大軍、朝鮮の義兵、そして海で補給路を断った李舜臣の水軍でした。秀吉がいても、海の補給の弱さは変わりません。

そして、秀吉が海の向こうにいるあいだ、日本の留守をあずかるのは関白の秀次と、名護屋に残る家康や前田利家です。もし秀吉が朝鮮で病に倒れたり、船が沈んだりすれば、日本でいちばん自由に動けるのは家康でした。秀吉の渡海は、豊臣政権にとって大きすぎる賭けだったのです。

史実:秀吉の渡海はなぜ止まったのか(1592年)

月 出来事
3〜4月 秀吉が京を出発し、4月に名護屋城に入る。先鋒の小西行長らが釜山に上陸
5月 日本軍が漢城(いまのソウル)を落とす。秀吉は渡海の準備を命じる
5月 秀吉が、天皇を北京に移し、秀次を中国の関白にするという壮大な計画を示す
6月 後陽成天皇が渡海を思いとどまるよう求め、家康や前田利家もいさめる。渡海は延期に
6月 日本軍が平壌に入る。一方で李舜臣の水軍に日本の水軍が敗れる
7月 母・なかが重い病に。秀吉は名護屋を離れて京へ向かうが、母の死に目に会えなかった

秀吉の渡海を止めたのは、天皇の願いと、家康・利家ら重臣のいさめでした。海が荒れる季節であることや、秀吉の身にもしものことがあれば天下が乱れることを、みな心配したのです。そこへ母・なかの病が重なり、渡海の話は立ち消えになりました。

秀吉が渡ろうとした海と道の配置イメージ
名護屋から対馬をへて釜山へ。日本軍は漢城、平壌へと進んだ(配置イメージ)

秀吉の「壮大な計画」

漢城が落ちたという知らせに、秀吉は大きな計画を立てました。後陽成天皇を北京に移し、秀次を中国の関白にする。日本の関白には、羽柴秀保か宇喜多秀家をあてる。秀吉自身は寧波に住んで、さらにインドまで目指す。

いまから見ると現実ばなれした計画ですが、秀吉が本気で海を渡るつもりだったことは、この計画からもわかります。

豊臣秀吉
天下を統一した秀吉は、海の向こうにまで目を向けた(イメージ)

もしも:秀吉が自ら海を渡っていたら

第1段階:漢城に入る(1592年夏)

秀吉が渡海すれば、前線の大名たちの士気は大いに上がったでしょう。秀吉は漢城に入り、小西行長や加藤清正らを直接指揮します。大名どうしの手柄争いや、命令の行きちがいも、秀吉の目の前では起きにくくなります。

第2段階:補給が続かない

けれど、問題は海でした。李舜臣の水軍が日本の船を沈め、兵糧や弾薬を運ぶ道が細くなっていきます。秀吉が漢城にいれば、秀吉の分の食料や護衛も運ばなければなりません。冬が近づくと、日本軍は寒さと飢えに苦しみます。

秀吉が海を渡った場合の日本の留守の関係図
秀吉が海の向こうにいれば、日本の留守は秀次と家康・利家にまかされる(関係図)

第3段階:母の死に目にも会えない

史実では、秀吉は名護屋から京へ急ぎましたが、母の死に目に会えませんでした。漢城にいれば、知らせが届くだけで何週間もかかります。秀吉は異国の地で母の死を知ることになり、大きな打撃を受けたでしょう。

第4段階:明の大軍と、秀吉の身の危険(1593年)

1593年1月、明の大軍が平壌を取りもどし、日本軍は南へ下がりました。秀吉が漢城にいれば、明軍は秀吉そのものをねらってきたかもしれません。秀吉が討たれる、病に倒れる、帰りの船が沈む。どれか一つでも起きれば、豊臣政権はたちまちゆらぎます。

晩年の秀吉
晩年の秀吉。もし異国の地で倒れていれば、天下はたちまちゆらいだ(イメージ)

その先:秀吉が朝鮮で倒れていたら

秀吉が朝鮮で亡くなれば、跡を継ぐのは関白の秀次です。秀頼はまだ生まれていません。秀次事件も起きず、豊臣家は秀次のもとでまとまる道もありました。

ただ、朝鮮には十数万の大名の軍勢が取り残されています。その引きあげをまとめ、国内をおさえられるのは、名護屋に残っていた家康と利家くらいです。家康の発言力は、史実よりずっと早く大きくなっていたと思います。

まとめ:秀吉が自ら海を渡っていたら

問い 答え(予想)
朝鮮出兵は 勝てない。海の補給と明の大軍に苦しむ
前線は 秀吉の指揮で士気は上がり、大名の争いはへる
秀吉の身は 海難・戦死・病の危険が大きい
日本の留守は 秀次と家康・利家。秀吉が倒れれば家康の力が強まる

筆者の感想

名護屋城跡に立つと、晴れた日には玄界灘の向こうに壱岐の島が見えます。秀吉はここから海の向こうを見て、何を思っていたのでしょうか。天下を統一したあとも止まれなかった秀吉の姿には、どこか悲しさも感じます。

秀長が生きていれば、兄の渡海はもちろん、出兵そのものを止められたかもしれません。秀長を失った秀吉は、だれにも止められないまま海の向こうへ突き進んでいきました。あなたは、秀吉が海を渡っていたら、どうなったと思いますか?

よくある質問

秀吉は朝鮮に渡ったことがあるの?

ありません。1592年に渡海するつもりでしたが、後陽成天皇や家康・前田利家らにいさめられて延期し、その後も渡ることはありませんでした。

名護屋城はどこにあるの?

いまの佐賀県唐津市にあります。朝鮮出兵の拠点として築かれ、まわりには全国の大名の陣屋が置かれました。いまは名護屋城跡として整備されています。

秀吉の「中国の関白」計画とは?

1592年5月、漢城が落ちたあとに秀吉が示した計画で、後陽成天皇を北京に移し、秀次を中国の関白にするというものです。実現することはありませんでした。

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